3度目のバヌアツ共和国(太字は写真あり)

2012.02.01

 1月29日(日)、雪での遅れを考慮して1便早めた午前11時10分発の飛行機で、富山空港から羽田に向かった。私が所属している富山みらいロータリークラブ(RC)の姉妹クラブであるオーストラリアのケントフォーストRC訪問と、バヌアツ共和国への3度目の支援と確認の旅の始まりである。
 19:50成田空港発のカンタス航空22便で日本を発ってシドニー空港に翌30日(月)の朝7:30(日本時間5:30)に到着。我々RC会員7人とその娘さんや娘さんの友達4人の11人は、空港に迎えに来てくれたケントフォーストRC会員の案内で市内観光した後、ケントフォーストに向かう。ホームステイ先のケントフォーストRCの5人のメンバーの家にそれぞれ分かれ一休みしてから、ケントフォーストRC会員の一人の大邸宅でのクラブ例会(我々の歓迎パーティー)(写真1)に向かう。このパーティーで、私は今年6月5日に開催する我々のクラブの設立15周年パーティーへの参加依頼のスピーチをおこなう。私より英語の上手なメンバーがいたのだが、1999年にを訪れて姉妹クラブ締結交渉を初めて行った者として、またクラブ会長経験者ということで私が挨拶した。(写真2-1)ホームステイ先のホストのKeith(キース)さん(写真2-2)に教えてもらった挨拶での切り出しの言葉「Unaccustomed as I am to public speaking」(たぶん「公式な挨拶は私は不慣れなのですが」という意味)は、Keithさんの予測通り笑いを誘った。

歓迎パーティーにて(写真1)
歓迎パーティーにて(写真2-1)

翌日の31日(火)は、3人のホストファミリーの車に便乗して、ブルーマウンテンの観光(写真3-1)に向かった。そこでの昼食時に聞いたホストファミリーの一人のGil Kommer(写真3-2)さんの言葉が忘れられない。それは、「人生は毎日の続きであり、過去や未来を恐れることは無い。何事も常に変わり、意識を変えることを恐れてはいけない。」というような話だ。
 この話から、私は今年の当社新年式で話した「目が覚めたら朝だった」という、砺波に住むお百姓さんの言葉を思った。朝、目が覚めるのは当たり前だと思っているが、それは生きているから目が覚めるのであり、今日も生きて一日を過せることに感謝しようということなのだ。さらに私は、これからは今日一日を悔いの無いように生きたい、と話したのであった。毎日をシッカリ生きることの大切さを、Gilさんの話で再認識させてもらった思いである。
 このGilさんは、姉妹クラブについて協議した時のケントフォーストRC側の3人の内の一人だが、その時にも、「赤ん坊は歩きだす前に、ハイハイする」すなわち、何事も段階を追って進んでいくことが大切、姉妹クラブの関係も同じで、最初は手紙やビデオのやり取りから始まって、お互いのクラブの訪問に進ばよいという話をされたことを思い出した。
 ブルーマウンテン観光の後は、2つ目の目的地バヌアツ共和国への移動であるが、2006年に初めてバヌアツ共和国に出かけたときと行きも帰りも同じ行程であった。夕方フェリーでケントフォースとからシドニーに向かい(写真4)、シドニーのホテルに泊まる。翌日2月1日(水)は美術館でピカソ展(写真5)を見たり、大聖堂(写真6)を見学したりしてから午後8時過ぎのバヌアツ航空の飛行機で3時間半かけて、バヌアツ共和国首都ポートビラ(エファテ島)に真夜中に到着。その時と同じホテルに泊まり、翌日2月2日(木)の早朝、ポートビラ空港から50分間のフライトでエスプリッツ・サント島に向かう。(写真7)

左:Keith(キース)さん
(写真2-2)
右:Gil(ギル)さん
(写真3-2)
ブルーマウンテン観光
(写真3-1)
ブルーマウンテン観光
(写真3-2)
フェリーでケントフォースト
からシドニーへ移動(写真4)
ピカソ展が開催されていた
美術館(写真5)
大聖堂の見学(写真6)

このサント島のベネという村にケントフォーストRCが妊産婦のための診療所を国際奉仕事業として建設していたが、その増築工事に我々のRCも資金提供したのがきっかけで、2006年12月に初めて、名前も知らなかったバヌアツへの現地視察に出かけた。その時のメンバー4人が、2009年8月の2回目、そして3回目の今回も参加したのである。
 3回目のバヌアツ視察に、当初私は参加する気はまったく無く、ケントフォーストRC訪問だけで帰国するつもりであった。しかし、昨年11月に行われた夜のクラブ例会で、バヌアツに1回目も2回目も一緒に行った3人が座っているテーブルに酒を注ぎに行ったら、「林さんも行きましょうよ」と強く誘われ、気が変わったのであった。
 サント島に着いた我々は、空港近くの町ルーガンビルで日本人が経営しているレストランで朝食をとってから、これも最初の訪問の時と同じくバッテリー(パナソニック製であった)を調達し、10時半ころ専用車で目的地のベネとホグハーバーに向かう。

ポートビラ空港から
エスプリッツ・サント島へ
(写真7)
日本人が経営するレストランで朝食をとる
(写真8-1)
日本人が経営するレストランで朝食をとる
(写真8-2)

ルーガンビルからのアスファルト舗装された道はしばらく走るとでこぼこの土の道に変わり、雨でぬかるんだりしていたのが(写真9)、今回は終着地のホグハーバーまで幹線はすべて舗装されていて、センターラインも引かれ(写真10)、交通標識もあちこちに立っていた。インフラ整備の状況に関しては、2回目の訪問の時は、携帯電話が使われていたのに驚いたが、今回の驚きは目的地まで舗装された道路や何箇所かで行われていた道路や橋の工事であった。これでは、当社がバヌアツに進出する余地がどんどん少なくなると思った。しかし、道路に沿って建てられた電柱は途中で途切れ、前回の視察で泊まったロンノックビーチには相変わらず電気が通じておらず、ホテルに備え付けの発電機からの電気も夜10時前には前回と同じように止まってしまい、夜中に使ったトイレはタンクに水が溜まらなくなってしまった。
 シドニーで別れた4人以外の、男性5人と女性1人の6人の富山みらいRC会員(私が65歳で最年長)と会員の娘さん1人、そして毎回お世話いただいているケントフォーストRCの73歳のネイビルさん、そして運転手の53歳のイノックさんの9人を乗せ、さらに現地で配る古着のTシャツを詰め込んだ大きなカバンを積んで、ワイドサイズのハイエースは順調に走り、11時にはベネ診療所に着く。我々のために朝食を用意して(写真11)待っていてくれた住民のおばさんや子供たちに私が簡単に挨拶して、食事を頂く。1回目の訪問でもこの場所でTシャツを配り喜ばれたが、今回もたくさんのお母さんやおばあちゃんが1枚1枚手にとって品定め(写真12)しながら受け取られた。

以前は舗装されていないでこぼこ道だった
(2009年8月視察)(写真9-1)
舗装整備され、センターラインがひかれた
道になっていた(写真10)
準備してくださった朝食(写真11)
Tシャツの品定め(写真12)

その後は、2回目の訪問で富山みらいRCがソーラ発電機やパソコン2台を贈って支援しているホグハーバーの学校へ向かう。プロジェクターと追加のパソコンをそれぞれ1台贈呈し、電気関係の仕事をしている戸田さんとパソコン関係の仕事をしている吉田さんが、校長室に置かれているバッテリーの点検やパソコンの設定を行ったり(写真13)、教室ではプロジェクターで英語版の「日本昔ばなし」の中の桃太郎を写したりした。(写真14)プロジェクターは、これまではパソコンを取り囲んで生徒が画面を見ていたが、これでそのようなことはしなくてすむと大変喜ばれた。しかし、前日までずっと続いていた雨のためにソーラーからの電気がバッテリーに十分に貯まっておらず、数分間で電気が切れ映像が消えてしまった。電気があるのが当たり前の日本と比べようも無い状況を目にし、文明の発展とインフラ整備の関連性を思った。

バッテリーの点検やプロジェクターの準備
(写真13)
英語版「日本昔ばなし」の上映(写真14)

翌日は小雨の振る中をシャンパンビーチ(写真15)に出かけ、途中の浜茶屋(?)ではヤシガニ(写真16)を食べ、過去の2回に訪れたのとは違うブルーホール(写真17)を見学してから、渡し舟でオイスターアイランドに渡り、最後の夜を過した。オイスター(牡蠣)という島の名前だけあって、夕食に食べた生牡蠣は絶品であった。生ものはあまり食べないほうが良いよいと出発前から言われていたが、私には関係の無いこと。ケントフォースとでもシドニーでも牡蠣を生でたくさん食べたが、それぞれに味が違っていたことが今回の発見である。

シャンパンビーチ(写真15)
やしがに(写真16)
ブルーホール(写真17)

翌2月4日(土)の朝、ネイビルさん(写真18)とサント空港で別れ帰国の途に着き、シドニーから夜行便で成田に戻り、5日の日曜日、今度は予定より1便早い飛行機で羽田から富山に無事到着した。妻から1月31日に、富山が大雪だと、家の前の雪の山に座っている我が家の犬の写真付きのメールをもらっていたので、富山空港に降り立って見た雪にビックリはしなかった。
 今回の旅では、往復の飛行機の中で宇野千代さんの「天風先生座談」を読んだが、オーストアリアでGilさんから聞いた話やバヌアツ共和国での見聞と思い合わせて、これからはもっと積極的な生き方をしなければいけないと強く思った。よい旅であった。

ネイビルさん(写真18)

65歳になって

2012.01.01

昨年11月のこのコラムのタイトルは「65歳」であった。昨年の11月に行った中学校の同期会での自己紹介の模様と、65歳以降の生き方について次のように書いている。
 「男性の自己紹介では、私ともう一人がオーナー経営者、もう一人がそれに近い立場、また二人が開業医で、この5人が現役で毎日働いていた。しかし残りの7人は、会社を定年退職した後、同じ会社か関連会社で再雇用や嘱託として働いていたが、昨年64歳で、あるいは今年65歳になって完全に会社を離れ、年金生活になっていた。たまにアルバイト的に以前の会社を手伝っている人もいたが、「毎日サンデー」のようで、現役のころは精力的でギラギラしていた男性も、とても穏やかになっていたし、他の男性からも、リタイアするとこんな感じになるのかと思わされた。(中略)
 早生まれの私は、かろうじてまだ64歳だが、今回の同期会ではこれまでのように再会を懐かしむことに加え、一般的に高齢者といわれる65歳から先の生き方を考えさせられてしまった。(中略)
 今回の同期会での男性たちの話を聞いて、やはり、働いていることの方が私の性分にあっていると思った。建設業にとっても介護事業にとっても非常に厳しい経営環境ではあるが、私が参加している勉強会の合言葉“75歳、現役バリバリ”を実践すべく、富山の社会基盤整備や維持のために、また、富山のお年寄りの幸せのために、がんばって仕事をしたい、そのためにも、もっともっと勉強しなければいけないと思った。」
 そしてこの正月2日に私も65歳になった。この日の午後から新年式での年頭挨拶で使うパワーポイントの作成を始めたが、スライドには入れないけれども、どうしても挨拶の冒頭に紹介したい言葉があった。それは「目が覚めたら朝だった」という、私のメモ帳に書きとめていた言葉である。
 どこでこの言葉を目にしたのか、あるいは聞いたのかは定かではなく、「砺波のお百姓さんの砺波さん」とコメントが付いているだけだったが、昨年末にこのメモを見つけたとき、なぜメモしたか直ぐに思い出せた。朝になったら目が覚めるのは当たり前と思うかもしれないが、目が覚めるということは今日も生きているということであり、生かされているということである、というような説明に、高校の同期で社会人になってからも交流があった女性が、布団の中で亡くなっているのを、朝、お姉さんが発見したという話を思い出し、この言葉に共感してメモしたのだった。
 昨年末にこのメモを見つけて読んだときは、東日本大震災の翌日の3月12日の朝、2万人以上の方が目を覚まさなかったのだと思った。そして改めてこの言葉の重さを感じた。その翌日から毎朝、目を覚ますと「ありがたい、今日も生きている」と思うようになった。
 現在世間では定年を60歳から65歳に引き上げている段階であるが、大企業でも55歳が定年退職であった昭和49年から当社は65歳定年である。私が一般社員だったら65歳の誕生日をもって定年退職となるので、昨年末に退職手続きを済ませてしまっていて、1月4日の新年式には出席しなかっただろう。しかし役員であるがゆえに65歳を過ぎても新年式で挨拶し、今日も当社で働いておられるのである。生きていて、65歳を過ぎても働く会社があり、働くことが出来るということは、何と素晴らしいことだろうか。そのことに対する感謝を忘れず、今年の経営指針の第一番目に掲げた「誠実に、勤勉に、汗を流し、効率よく働く」を、社長である私自身がシッカリ実践しなければいけないと思いながらスライドを作っていった。
 聖路加国際病院理事長の日野原重明先生は、今年101歳を迎える自分にとって、新世紀への約束、決意=コミットメントをすることが、自分に与えられた使命であるとして、「日本から武器をなくすことこそ、世界平和への第一歩だと信じ、110歳まで生きて、この運動に全力を注ぎたいと考えています。こうした活動への賛同者をひとりでも多く得るためにも、65歳以上を老人とせず、少なくとも85歳までは自立した生活が続けられるよう、健康運動のキャンペーンを日本中に広げたいという思いも新たにしています。」と「100歳・私の証 あるがまゝ行く」(朝日新聞1月14日)に書いておられた。
 その日野原先生が会長を務める「新老人の会」の富山支部世話人代表の私なのだ。65歳になったからと言って、前期高齢者になったとは全く思っていない。私が大事にしている、“「働く」は「端・楽」=周り(端)を楽にする=世のため人のために役に立つ” ことを、会社経営を通じて実践するために、朝目覚めたら、生きていることを自覚し感謝することから一日をスタートさせる、これが65歳の誕生日以降、日々思っていることである。

60周年

2011.12.01

先月のコラムは、「65歳」と題して11月に行った中学校の同期会のことを書いたが、今月は、「60周年」と題して、私の出身校である東北大学の柔道部創部60周年記念納会、記念式典、祝賀会、それが終わってからの合同同期会の話を書いてみたい。
 12月10日(土)13:00からの、現役部員とOB部員による紅白対抗の記念納会試合を最初から見学すべく、7:08富山駅発の特急はくたかで仙台に向かった。仙台駅に着いてタクシーで柔道場がある川内キャンパスに直行した。
私が学んだ頃の川内は、広々とした芝生のキャンパスに中層の建物は教職員宿舎くらいで、教室や図書館などほとんどの建物が木造の平屋だったと思う。運動部の部室は駐留米軍のかまぼこ型兵舎だった。「川内に着きました」とタクシーの運転手さんに言われても、コンクリートのしゃれた建物が立ち並ぶ光景に、どこがどこだか見当がつかない。
 柔道場がある川内サブアリーナは3階建てで、柔道場はその3階にあった。50畳の試合場が2面取れ、さらに余裕のある道場は、私が稽古していた頃の剣道場と柔道場が一つ屋根の下にあった瓦屋根の木造の平屋とは大違い。天井を見れば何とエアコンが付いている。冬の稽古では、道場の梁にかけておいた汗に濡れた柔道着が翌日は凍っていたし、冷たい畳での稽古でかじかんだ足は、稽古が終わっても冷たいままだったことを思い出した。何とも贅沢な環境だ。
送られてくる部誌で女子部員がいることを知ってはいたが、実際に柔道着を着て高音のかけ声を発して稽古している姿を目の当たりにすると、後輩の女子学生ということで、テレビで観る女子柔道の試合と違った親近感を覚えたが、隔世の感もまた抱かざるを得なかった。
 我々の時代と同じく高専柔道(旧制高等学校・旧制専門学校の柔道大会で行われた寝技中心の柔道)ルールでの試合は、寝技の攻防、特に締め技や関節技が決まった時の手での「参った」の合図に、40数年前の学生時代の稽古や試合のことが思い出された。よくぞこのような過激な稽古を、入学時はどちらかというと虚弱だった私が5年間(1年留年したので)も続けられたものだと感心すると同時に、現役の男子学生の盛り上がった胸の筋肉を見ると、見る影も無くぶよぶよになった現在の自分の体に歳月を感じ、また、酒と美食を追い求める怠惰な日々を恥じるのであった。
 来賓と卒業生117名と部員27名が参加しての記念式典、祝賀会では、私が主務(マネージャー)の時、米国に留学していた先輩に手紙で柔道部への寄付をお願いしたところ、ドルの小切手を送ってくださったその先輩も来ておられ、当時の話をしたら「そんなこともあったけか?」と懐かしがられた。また、「七大学戦優勝主将に聞く」ということで、昭和27年の第1回大会で優勝した時の先輩に始まり、優勝した歴代の主将が、試合の経過報告の後それぞれ当時の思い出を話した。
私が柔道部に籍をおいたのは昭和40年から5年間だったが、入学した年は東北学生チャンピオンを主将に擁していて13年ぶりの優勝が確実視されていたのにまさかの敗退。仙台に帰ってきた先輩方のうつろな表情と次期主将の丸坊主にした頭を今でも思い出せる。その後の我々の時代は1回戦で勝っても2回戦で敗退か、1回戦で敗れて敗者復活戦に回ってまた敗れることが多かった。私の優勝経験は、4年生の時に我々から持ちかけて始めた北大との定期戦で勝ったことだけ。それでも、その時の感激と道場の畳をはぐって行われたジンギスカン鍋の懇親会を覚えている。
 卒業後、自宅に送られてくる部誌で2回目の優勝を知ったのが、京大で行われた昭和61年の第35回大会。引き分けのまま代表戦でも勝負がつかず京大との2校優勝だったが、第1回大会の優勝以来、実に34年ぶりの優勝であった。翌年も京大と優勝を分け合い、その後は平成10年、15年、18年、そして20年と優勝している。大したものだ。七大学戦優勝を体験できた部員は、さぞかし嬉しかったことだろう。
 祝賀会の後は、昭和44年卒から48年卒までの5代の合同同期会を、仙台市の郊外の秋保温泉で行った。福岡県や三重県、神奈川県など全国各地から29人集まったが、私は留年したおかげで48年卒の顔も知っていて、若くても61歳だから頭髪や体型はすっかり変わっているが表情は変わらないもので、飲むほどに酔うほどに心は学生時代に戻り、楽しい時間を過した。
 さて、私には1回目の4年生の時の名古屋での名大との試合を忘れられない。7大学戦は15人の選手による1本勝ちのみの勝ち抜き戦で、私は14人目の副将で出たが13人目まですべて引き分け。引き分け役の私は、相手も引き分け役の選手とお互いに攻めることなく8分間の試合を終え予定通り引き分けて、同じ昭和40年の経済学部入学で仲がよく、柔道部の同期で残った5人の中でただ一人の柔道経験者であった主将を務める大野君に勝敗を託した。名大の大将の須崎君は7大学有数の選手であり、大野君は一度は横四方固めで抑え込まれたものの何とか逃れたが、再度抑え込まれ万事休した。あの時、引き分け役であってもなぜ攻めなかったのか、勝てたら、次の試合では負けたとしても須崎選手を疲れさて大野君にまわせたのではないかと、卒業後もずいぶん長い間、何かの拍子に思い出し悔やんでいた。
 しかし、卒業して40年以上経った今日、柔道部のおかげで良き友に出会い、今回も創部60周年を機に旧交を温め、学生時代の数々の思い出を蘇らせることが出来たことを実にありがたく思う。決して自慢にはならないが、やはり私は、経済学部卒というよりは柔道部卒である。両方とも、決して優秀ではなかったが。

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