3月24日(土)、新しく出来上がった都市計画道路呉羽町袋線(県道富山高岡戦)富山大橋開通式に施工業者として出席した。生憎の雨模様であったが、富山大橋の西詰めに張られた大きなテントの中で9時20分から修祓式、10時から開通式が行われた。長女も開通式が見たいとやって来ていたので、テープカットのあとに携帯電話で居場所を探したら、佐藤工業のK部長(2009年12月23日に開業した路面電車環状線化のための富山都心線工事を当社と佐藤工業のJVで施工した時の現場所長で、現在は本社営業部勤務)と一緒にいた。長女は、富山都心線工事の時に何度か現場事務所に書類届けなどしていて、Kさんと顔見知りであったのだ。Kさんは私に、「今回も朝日建設さんには大変お世話になりました」と言われた。当社が佐藤工業・日本道路・富山地鉄建設JVの下請けとして、電車の軌道施設工事に携わってきたからであった。
そのあとすぐに、当社担当者のIさんとSさんが、当該JVの所長の佐藤工業I所長と一緒にいるのを見つけた。当社の二人は作業服姿だったが、Iさんはスーツにネクタイ姿。Iさんは、これまでトンネルなど(山奥の人目につかない現場で)の工事ばかり担当してきていたので、街中のこんなに晴れがましい式典に参加できて嬉しいと語り、さらに「Iさん、Sさんには本当によくやってもらった。二人がいなくても完成はしただろうが、いなかったら(経過は)違っていたでしょう」との言葉に、夜遅くまで現場や現場事務所で仕事をしていた二人、そして作業に当たっていた当社の社員の姿を思い出した。さらに当社が施工した富山大橋架け替えにかかわる数々の工事が思い出された。代表的な工事としての、竹中土木とのJVで施工したP5橋脚、神通川右岸の下部工A2橋台や右岸函渠工、橋面舗装工事などのほか、五福や安野屋で関連の道路改良工事をいくつも行ってきた。それがついに完成したのだ。
その日の夜、家族で食事に出かけたが、開通したばかりの富山大橋を通る時はワクワクした。特に妻が運転(私は酒を飲んでいたので)してくれた帰り、助手席から眺めた橋の中央に建てられた照明柱の光が外国の光景を思わせるようにロマンチックで美しかったことは、未だに記憶に残っている。
この富山大橋架け替え工事の目的の一番目は、これまでの2車線の車道を4車線化することで交通渋滞の緩和を図ることであった。しかし、これまで片側1車線だった五福末広町交差点から安野屋交差点までが片側2車線になっても、安野屋から丸の内までは従来通りの片側1車線であり、それほど渋滞緩和に役立つとは思えないというのが、私も含めもっぱらの意見であった。しかし、この予想は見事に覆された。
私は毎朝7時前後に自宅を出て、戸出小矢部線、富山高岡線経由で会社まで30分近くかかっていた。出発が7時5分を過ぎると、あちこちの渋滞で会社に着くのは7時40分を過ぎるので、そんな時は北代、長岡を経由して富山北大橋を通って何とか7時半のユニバーサルデザイン室の朝礼に間に合うようにしていた。それでも5分や10分遅刻することがあった。そこで、富山大橋が開通しても、最初に新しい富山大橋を通って会社に出かけた日は6時58分に家を出た。しかし7時10分過ぎには会社に着いていた。次の日は、7時2分くらい、次に5分、8分と出発時刻を遅らせても、いつの時も15分〜17分間で会社に着く。そこで今では7時10分過ぎに家を出ることもあるが、会社には7時半までに確実に着ける。
家を出る時刻が10分間ほど遅くなったが、起床はそれまでと同じ4時45分。5時前から2匹の犬と別々に50分間ほど散歩し、家に戻って妻とお茶とお菓子でおしゃべりしながら新聞を読む。そのあと風呂に入り、食事して出かけるというパターンは一緒。おしゃべりと風呂と食事に10分間だけ多く使えるようになったのだが、ずいぶんゆとりができたと感じる。
ゆとりと言えば、橋の歩道幅員も2mから4.5mに広がり、これまですれ違うのが大変だった自転車が悠々と走っている。ジョギングしている人は対向する歩行者や自転車を気にせずに走り過ぎ、歩行者も楽しそうに歩いているのを見かけると、開通した日の外食からの帰り道に橋を走りながら妻が「これなら公共事業の意義が感じられるわね」と言ったのを思いだす。
財政再建の名の下に公共事業のGDP割合は6%台から15年足らずの間に欧米並みの3%台までに減ってしまい、それを小泉改革や民主党の「コンクリートから人へ」の政策の成果だという人もいる。しかしこれはとんでもない間違いだと思う。3.11の東日本大震災を例にとるまでもなく地震王国と言われる日本、毎年のように台風被害が発生し、火山や急峻な河川が多く世界に例の無い積雪寒冷地帯の東北や北陸地方を持つ日本では、3%では足りないのだ。これからは、防災の観点、産業経済の観点、富山大橋のような安全で円滑な交通の確保に加えゆとりを創造する文化的観点から公共事業を増やすべきなのである。これは、私が建設業の経営者だから言うのではない。日本を良い国に、富山を良い県にするために必要なことだと信じるから言うのだ。そのためには、われわれは国民、県民、市民としてどんな公共事業が必要かを自ら考え、政治や行政を通して実現していかなければいけない。公共事業を政治屋の集票の具とさせたり、行政にお任せしているようでは、安心、安全で文化の薫り高く、生まれてよかったと誇りに思えるような国にはならない。