中西 進先生

2019.05.01

3月3日(日)、高志の国文学館館長中西進氏の特別講演を富山県美術館で聴きました。中西先生のことはほとんど知らなかったのですが、大学で日本文学を専攻していた次女に中西先生の講演を聴きに行くと話すと、「中西先生はすごい人なのよ」と言うのです。改めて講演会のチラシのプロフィールを見たら、文化勲章受章とありました。

 チラシに書かれていた演題「余白そして留守」は、当日ステージに掲げられたハンガー看板には「余白 空白 そして留守」に変わっていました。富山県美友の会の事務局にこのことを聞いたら、変更された演題の書かれた紙を当日持ってこられたとのこと。「余白 空白 そして留守」の方が、七五調でリズム感があると思いました。

 中西先生は新元号「令和」の考案者とみられているということで、4月1日の新元号発表以降マスコミに何度も取り上げられる時の人ですが、講演会の3月3日は、いろんな日本画や洋画をスライドで紹介しながら、ユーモア溢れる講演をする89歳の館長さんでした。

 以下に、iPadにメモした講演内容を紹介します。

 最初に、美大生が描いた、色が塗られておらずキャンバスのベニヤがそのまま見えている絵について、「絵の中に余白があると言われるとエッと思うが、絵を考えることは楽しい。つまらないのは万葉集(笑)」という万葉集研究の大家の出だしに、会場の雰囲気が和らぎました。

 続いて、尾形光琳の燕子花(かきつばた)図を紹介して、「根が描いてないし土も描いてない。こんな描き方しかなかったのか?と言うと叱られる(笑)。これを根も葉もない絵(笑)といいます」と、また笑わせられました。

 歌川広重の木曽路之山川(きそじのやまかわ)のスライドでは、「白い山だけで他に何も描いてない」に始まり、メモを読み返したら意味がよく理解できなかったのですが、「“味の素”の素とは白。白とは元、元とは無である」と続きました。「元素」ともメモしており、白についてだけでもこれだけ深く考えておられることに、すごいと思いました。

 長谷川等伯の松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)のスライドでは、「余白が代表的な絵だと言われている。意図的な白、巧まれた白」とメモしていました。そして「松竹梅」に話が展開し、松と竹と梅の取り合わせは人間の優れた感覚を表していて、梅は匂い(嗅覚)、 竹は伸びる(視覚)、 松は風の音(聴覚)だと話されてから、「この絵に松が密集していたら音は無い。密に描かれていたら意味がない」と、空白から松と音の関係を説明され、成る程と感心しました。

 そして「留守」に話が展開します。作者未詳「誰が袖屏風」(たがそでびょうぶ)で、「これは誰の袖(誰が袖)か分からない小袖を描いた絵だが、近景を描いているが留守にした人物の存在を描いている」、また、「平安時代に牛車に乗った女性が着物の裾を簾の下からチラッと見せた。それで男か女か、位はどれほどかが分かる」、「俳諧では無月という季語がある。月がないのだけれど月の存在を示すものがある」として、姿が見えないが存在するものを描く、書くのが日本なのだと話されたのでした。深いですね。

 「ファン・ゴッホの椅子」の絵では、「留守を描いているが椅子の上に何かを描いたのが限界である」と話され、「非在は存在に非ず」だが、「不在は留守であり、愛嬌もある。狂言にも留守を題材にしたものがある」、「崇高なるものはあると信じる。宇宙(もあると信じるからある)」とメモしています。

講演は、「表現の正道(せいどう)を真っ直ぐに歩いてきたのが日本画家である」と締めくくられました。

 この講演を聴いた後に、令和の考案者と目された中西先生の言葉が新聞にたびたび取り上げられましたが、講演を聴いていただけに、ほとんどすべての記事を読みました。今読み返すと、中西先生らしいコメントだと思うものがいくつかありました。

 『5月10日発売の月刊誌「文芸春秋」で、「典拠としては国書である万葉集が良いと考えた。令に勝る文字はないと中西という人は思っていた」と明かした。』(5月11日 富山新聞) とありますが、「中西という人は思っていた」に、令和の考案者について明らかにしないという政府の方針を上手にかい潜り、ユーモアもある表現だと思いました。

 また、5月1日の日経新聞には、令という文字について、「一般的には訓読みをしない漢字だからなじみが薄かったのですが『令(うるわしい)』という概念です。『善』と並び、美しさの最上級の言葉です。これと『和』を組み合わせることで、ぼんやりした平和ではなく、うるわしい平和を築こうという合言葉になる」に、講演会で聞いた「“味の素”の素とは白。白とは元、元とは無である」を思いだし、言葉についての考察の深さを改めて思いました。

 これからの令和の時代が、中西先生の持論「元号は時代に対する、おしゃれみたいなもの。美的な感覚を楽しむ文化の一つ」を実践し、肩の力を抜きつつも、うるわしい平和な時代を作るために、私も楽しみながら、しっかり歩んでいきたいものだと思います。