高志の国文学館 開館10周年記念特別講演会

2022.09.26

 高志の国文学館では良い催しがたびたび企画されますが、9月11日(日)に表題の特別講演会が富山国際会議場で開催されました。「脳と言葉」という講演会で、脳科学者、医学博士、認知科学者の中野信子さんの基調講演と、国文学者であり高志の国文学館館長である中西進先生と中野さんとの記念歓談という構成です。

 楽しみに出かけた講演会、メモを取りながら聴きました。

      

 中野さんの講演で印象に残った話は、

      

・「言葉は噓をつくためにある」それは「虚構を作って皆を団結させる」そして「戦争を起こす」

      

・文字を読むのが好きな人は選ばれし人。本が100万部出版されたらベストセラーだが、これは日本の人口の1%弱(という選ばれた人)である。

      

・般若心経や法華経などの経典は美しくつくられている。詩の形で訳した人がいたことは特筆すべきこと。現代は論理で押し、正しいことを言っていれば分かってもらえるはずで、分からない方が悪いとし、美しい言い方をしない。

      

・空海の文章は繰り返しが多い。「生まれ生まれ生まれ」、「死に死に死に」。先行する刺激が次の刺激の理解を促進する。一度聞いた言葉に対しては反応が早くなり、ふわっとした酩酊感が起こる。

      

・我々は論理より、美しく分かりやすく短いものを好む。遅くて知的な論理が、必ずしも説得力を持つわけではない。

      

・約5分と言うが約18分とは言わないのは、5分刻みが切りがいいからで、5本の指を使っているからであり、5と10という指の形に脳が合わされている。人数を数えるのに軍隊では5人の隊の長は伍長。

      

・顔と名前が分かって自分の仲間だと認知できるのは150人までであり、解剖学的にも言えること。150人以上はよそ者で、よそ者は攻撃しても良いとなる。相手を貶める快感で相手を攻撃する。自分の身を削っても相手の苦しむ顔が見たい。

      

次に、中西先生と中野さんの記念歓談でメモしたことです。

      

中西:「額」という字は、「額づく」と「ひたい」と読むが、「ひたい」は「ひたすら」で、脳の小宇宙の中で働き直接認知するという直接の意味があるのではないか。

      

中野:右脳が芸術的で左脳が論理的という説には根拠がない。芸術的とはどういうことなのか定量的には測れない。前頭前野が芸術的働きをする。前頭前野はまず社会性をつかさどり、自分の欲を先行させない。損得ではなく美しい、醜いで考える。

      

中西:「美しい」という言葉はまず可愛いという感情。夫が妻に「美しいね」と言うのは可愛いと言っているだけ。「麗しい」が美しいの意味あい。

今回の講演会には1,200人の応募者から800人が抽選で選ばれたが、会場を見ると空席がある。これは麗しくない(会場に笑い)

仏教は絶望からスタート。人間は醜い、そこから立ち上がることが仏教。 中国の儒教は社会学であり、そこには美しい、醜いではなく、善か悪かである。良いか悪いかだけの人とは友達になりたくはない。徳とは真っ直ぐな心であり、美しい心ではない。

      

中野:月を見て美しいと思うのは千年前と同じ。しかし、美女を見て美しいというとき、千年前とは基準が変わっている。

地域や情勢によって善が変わる。戦争で人を殺すことは善。それに対応して善悪の基準が変わるように脳が設計されている。

      

中西:善とは羊のスープの意味で良いもの。人間の認知の仕方として善と美は同じと考える。

      

中野:善と美は同じ機能だろう。カントの真善美の哲学で真だけが浮いている。真には価値がないのではないか。脳には真をジャッジするところがない。真そのものが実態が確かめられない虚構である。脳科学的には、個人的には真はいらない。真は統治のための思考装置である。日本人は真よりも和を大事にする。真など必要ない。

       

中西:仏教の世界の三千世界など嘘。

      

中野:前世も後世も誰も知らないが、あると便利。

      

歓談の最後は、スクリーンに映し出された二つの和歌

「春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ少女」

「之乎路から直越え来れば 羽咋の海朝凪ぎしたり 船梶もがも」

について、中西先生は最初の歌は、文字の線を見ただけで情景が浮かんでくる。5感を包むアートであると話され、中野さんは二つ目の歌について、「来れば」の「ば」に、何とかすると何とかだという因果関係の処理をしていると話されました。国文学者と脳科学者らしいコメントだと思いました。

      

 文系の私にとって、良い時間を過ごすことが出来ました。