鹿児島を旅して

2018.04.02

4月14日(土)9時40分、富山空港(正式名称は「富山きときと空港」ですが、何とも安直な名付け方で私は嫌いです)発の飛行機で羽田空港へ。12時5分発の飛行機に乗り継ぎ、15分遅れで14時10分に鹿児島空港に到着し、空港からノンストップバスで15時過ぎに鹿児島市内に入りました。鹿児島には1979年(昭和54年)に日本青年会議所の全国大会で行ったことがありますが、桜島を観ながらの錦江湾観光クルーズ船上で、日本青年会議所会頭が当時発売されたばかりのソニーのウォークマンでイヤホンから音楽を聴いていたことと、城山観光ホテルという立派なホテルで大懇親会が行われたことくらいしか記憶に残っていません。

 今回の2度目の鹿児島行きは、「新老人の会」富山支部の世話人代表(支部長のような職務)としての第11回「新老人の会」ジャンボリー鹿児島大会参加が目的でしたが、40年近く前のような記憶にほとんど残らない旅行にはしたくないと思っていました。しかし、ジャンボリーは4月15日(日)の午後1時から始まり、懇親会終了が午後8時で、翌日の月曜日には仕事の関係で、飛行機と北陸新幹線を使って午後2時過ぎに富山に戻るという日程から、自由行動できる時間は、大会前日に鹿児島に着いてから寝るまでの間と、大会当日の午前中だけでした。こんなタイトな日程でしたが、何か記憶に残ったことがあるかと問われたら、「あった」と答えます。

 まずは、この4月に鹿児島支社に転勤になった、D生命富山支社時代に取引と交流があったYさんとの再会です。鹿児島に一緒に行った「新老人の会」富山支部の会員のOさん(女性)も交えての夕食会をYさんが段取りしてくれていましたが、かなり激しい雨の中を午後6時にホテルに迎えに来てくれたYさんの腕には3本の雨傘。私たち2人のために、自分が持っていた雨傘を準備してくれていたのでした。鹿児島は雨という予報を聞いていたのですが、傘を忘れてきた私は大助かりでした。

 昨年末に、会社でD生命と生命保険を1本契約しましたが、その前にR社を通して生命保険を1本契約したばかりだったので、最初は聞くだけ聞いて断るつもりでした。しかし、R社と契約した生保との違いを説明したYさんの説得力に、それまでの付き合いで感じていた「面白い人」の印象は「出来る男」に変わりました。そして雨傘で「気配り出来る人」が加わったのでした。

 鹿児島の芋焼酎「島美人」を飲み、鹿児島の黒豚のしゃぶしゃぶや黒牛のステーキをほお張りながら聞いた、Yさんが社会に出てからの4社での勤務体験は興味深いものでしたが、中でも、D生命の前のA損保時代に、堪能な英語力を買われて米軍の座間基地で米兵の保険手続きの仕事をしていたときに知った米軍の組織に関する話題、特に海兵隊隊員の戦闘地域や出身地、給料については知らないことばかりでした。Yさんはまだ44歳ですが、色んな人生経験を積んできたことを改めて知り、知り合ってよかったと思いました。

 翌日の午前中はOさんとタクシーで、万治元年(1658年)に築かれた島津家別邸である敷地面積5万平方メートルの仙巌園(せんがんえん)に出かけました。このタクシーの運転手さん、運転中ずっとNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」で観光客があふれている鹿児島市内を案内しながら、幕末の名君島津斉彬(なりあきら)を輩出した島津家の家系について、養女篤姫の話も交えながら詳しく話してくれたのです。そして「島津家が好きで、今、この本で勉強している」と、助手席の横にはさんである「島津一族~無敵を誇った南九州の雄」という本を示してくれましたが、大変分かりやすく書かれていました。この運転手さんの話のおかげで、錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた雄大な仙巌園をより興味深く散策できたように思います。

 仙巌園からジャンボリーの会場に行くのに乗った運転手さんも良い感じだったので、ついつい富山のタクシー運転手さんと比べてしまいました。富山市内には観る場所が少なく、かつ点在していて、タクシーで回るには愛想もない町ではあります。しかし、説明する場所が少ないと思って他の話題をもちかけても、待遇や給料に対する不満は聞かされることはあっても、楽しく会話を続けてくれる運転手さんに巡り合った記憶がほとんどありません。運転手さんに限らず、鹿児島で言葉を交わした人はみなさん、明るかったです。鹿児島空港の土産物屋の女性店員さんの笑顔と親切も忘れられません。明るい日差しの中で育ち生活している鹿児島県の人々と、どんよりとした天候の下でじっと風雪に耐えながら生活している我々富山県人との違いが、こんなところに出ているのかと思いました。

 物よりも人が記憶に残った、今回の鹿児島「ふれあいの旅」でした。