東日本巨大地震

2011.03.01

東日本巨大地震が発生した3月11日(金)の午後2時46分頃、私は本社4階の会議室で午後1時から始まった「現場NOTE」導入プロジェクト会議に冒頭の1時間だけ参加した後、2階でデスクワークをしていた。地震発生時刻に揺れは全く感じなかったが、会議終了時刻の5時前に再び顔を出したら、東北地方で大地震が発生したと会議メンバーが教えてくれた。4階ではかなりの揺れは感じたが、2軒隣のビルの解体工事の揺れだと思ったとのこと。しかし、地震発生後すぐに隣室の営業部から情報が入って地震と分かり、会議を中断してテレビで津波の実況中継ニュースを見たと言う。そこで私もテレビを点けたら、津波が家や車を飲み込みながら田んぼを進んで行く凄まじい画面が飛び込んできて、言葉を失った。
 その後テレビはどのチャンネルも地震のニュースだけになり、死者、行方不明者の数は増え続け、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震による被害は、太平洋沿岸部の都市を軒並み文字通り壊滅状態に陥れた。
翌日の12日、私は午後から本社で、土曜日の日課となっている週間スケジュール表のチェックや確定申告書をe-Taxで作成していたが、巨大地震が頭を離れず、会社として、個人として何ができるだろうかと考え、とりあえず14日の月曜日には緊急の役員会を開き、義援金を贈ることを決めようと思った。帰宅したら、本日の午後、東京電力の福島第一原子力発電所の1号機で、爆発により炉心溶融の疑いを含む大事故が発生したとニュースで知った。
 そして日曜日の13日、私は大学に進学する次男の住むマンションを決めるために、彼と滋賀県の草津市に出かけた。順調にマンションを決め契約手続きを済ませ、午後5時過ぎに南草津駅行きのバスを待っていたところに、専務から携帯に電話。「何かあったな」と思いながら電話に出ると、国土交通省と防災協定を結んでいるF建設の社長から、災害救援のため明日の昼出発する部隊に、当社からもオペレーターを一人派遣してほしいという実に急な要請をされたとのこと。できるだけ協力するようにと専務に指示したが、結果が気になり、富山に帰るJRの中から専務に携帯メールしたところ、Tさんが行ってくれることになったと9時前に返信メール。ホッとすると同時に、Tさんに“ありがとう”との思いがこみ上げた。
 14日の月曜日、8時からの緊急役員会で、社員として10万円、会社として40万円の義援金を贈ることを決めた。S部長と一緒にやってきたTさんには、しっかり任務を果たしてくるようにと声をかけ、握手した。そして、昼には、北日本新聞社に50万円を届けた。
その後、津波による被害が増大し続け、福島第一原発の事故は日に日に危機的な状況になっていった。「日本沈没」の言葉もふっと頭をよぎるが、そんな悲観的な気持は払拭して、何としても復興させなければならないと、日本国民の一人として思う。
 復旧にはどのくらいのお金がかかるだろうかと、改めて、「公共事業が日本を救う」を読み返したら、以下の数字が目に留まった。
・ 利根川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約34兆円で、荒川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約33兆円で、この両方が同時に生じてしまうと、最悪の場合、約70兆円近くもの被害を首都圏住民は被ることになる。
・ 阪神淡路大震災では、6434名もの人命が奪われ、約11万棟が全壊・消失し、経済的損失は14兆円と試算されている
・ 首都直下型地震の被害想定では、経済損失は実に112兆円の試算もなされている。
 私はこれらの数字から、今回の東北、関東を襲った巨大地震の経済的損失は、わが国の国家予算の約90兆円を軽く上回るのではないかと思う。
 「公共事業が日本を救う」の7章「巨大地震」に備える の書き出しは、“地震から「絶対に」逃れられない国、日本”であった。だからこそ、日本の復興、そして日本の発展のために、個人として、建設経営者として、果たすべき役割は多いと思う。未来に希望を持ち、責任ある人生を歩まなければいけない。