私は、47年前の高校3年生のとき、大学の受験勉強の合間に宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」を読んだ。この作品がとても心に響き、次に賢治の詩を何篇か読んだ。詩の中に登場する東北弁が心地よく感じられ、作品の舞台である東北地方に惹かれた。そして、東北大学に行きたいと思った。
3年生の学力試験の成績はだんだん下がりで、志望校を決める時点での学力では東北大学経済学部は危なかった。しかし全国模試でのA判定を信じて受験した。
受験には母が同行してくれたが、上野から仙台に向う列車の中は東北弁が飛び交っていた。母は、「何を話しているのか全然分からない」と言ったが、私には東北弁がなぜだか懐かしさを伴って耳に入り、話の内容が全て理解できた。賢治の作品を読んでいたからだと思った。
うまく東北大学に入学できた私は、体を鍛えようと柔道部に入り、そこで同じ経済学部の和田君に出会った。彼は大変な文学青年だったが、教養部2年生の時、3年生からの学部では専門の勉強に専念することになるので、教養部でもっと幅広く勉強したいという理由で留年した。オッチョコチョイの私は彼の考えに共感し、私も留年しようと父に電話したら、「馬鹿者」と一言で退けられた。ならば学部で留年してやろうとひそかに決めて、4年生のときに1科目だけ残して計画的に留年した。親には、経済学をもっと勉強しようと思うと言っての留年であり、自分自身もそのように考えていたが、学生に対して親切な仙台の人たちの人情や、東北の風土から離れがたくての留年であったことは、2回目の4年生のときの勉強態度から明らかである。
そんな私は、5年間も仙台にいて、有名な七夕も風光明媚な松島も一度も見たことが無かった。しかし、卒業前年の昭和44年の秋、宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市をぜひ訪ねたいと、今でも思い出に残る4泊5日の岩手県一人旅をした。
学生手帳に書き込んだメモによれば、初日は岩手県一関に向かい厳美渓を見た後、平泉に行き、高館義経堂と中尊寺を回って盛岡で泊まった。二日目は、小岩井農場に出かけ、牧場に寝転び、賢治の作品に登場する岩手山をながめながら、賢治の詩を読んだ。この日の宿泊は宮古。三日目は、バスに乗って陸中海岸国立公園の中心をなす宮古の代表的な景勝地浄土ヶ浜に出かけ、遊覧船で巡る。バスと遊覧船で一緒になった一人旅の女性に心惹かれたと書いている。その後、釜石に向かい魚市場などを見物してから、柳田国男の「遠野物語」で有名な遠野に行って泊まった。翌日は、遠野の福泉寺に出かけ、福泉寺にある新四国八十八カ所霊場を参詣してから、「遠野物語」にでてくる狐でも飛び出してきそうな山間を、汽車で花巻に向かう。花巻の先の台温泉で宿を探すが、11月2日、3日の連休前の土曜日のため、どの宿も満員。やっと自炊旅館を見つけて泊まったが、部屋の床が傾いていたことを思い出す。そして最終日は、花巻に戻って、賢治ゆかりの場所をまわった。「雨ニモマケズ」の詩碑が建つ羅須地人協会(らすちじんきょうかい)跡で賢治の童話を読んだとメモしている。その後、北上川をさかのぼって、賢治が「イギリス海岸」と名づけた場所を見る。「北上川は、おだやかな良い川だ」とメモにあった。
私が大好きなこの東北地方が、3月11日に発生した東日本巨大地震で壊滅状態になってしまった。私が訪れた宮古や釜石でも、多くの方が亡くなり行方不明になっている。
私は、東北地方の復興には、地震や津波を、これまでのものよりも格段に大きく強固な防波堤などで真正面から防ごうとするのではなく、上手にかわすことを考えることがひとつのポイントだと思う。それを踏まえた上で、東北地方のそれぞれの地域が持つすばらしい文化や伝統を途絶えさせないようにするには、どのような形で街づくりをすればよいかを考えることが大事ではないかと思う。
そこへ、菅直人首相が13日、福島第1原発周辺の居住が長期間困難になった場合の移住先として、内陸部に5万〜10万人規模のエコタウンを建設する構想の提案に賛同した上で「市の中心部は、ドイツの田園都市をモデルに考えたい」と述べたとの新聞記事である。こんなことが軽々しく発言され実行されたら、東北地方の文化は死に絶えてしまうだろう。
賢治の作品の中に繰り返し出てくる「イーハトーブ」は、「岩手」をもじって賢治が造った言葉で、賢治にとっての理想郷である。この「イーハトーブ」を深く理解し、そして実現することが、亡くなった方々の魂に報いる道ではないかと思っている。