「中西進のメッセージ」その2

2023.05.25

 先月のコラムの最後に、「来月は、高志の国文学館の書籍販売コーナーで買った中西先生の著「卒寿の自画像-わが人生の賛歌」で知った、言葉の意味について書きましょう」と記しました。早速、書いていきましょう。

   

万葉集は恋歌の多さで知られています。山部赤人にはこんな歌があります。

第3章の「花の咲くとき」に“日本の恋は「孤悲」”という節があります。書き出しの部分をそのまま書き写します。

   

  • 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

 明日香川の淀みにいつも立ち込めている霧のように、わが恋もすぐに消えてなくなるようなものではありません、という意味です。この恋は万葉仮名では「孤悲」と表記されています。

 古代から日本では、恋の本質は孤独な悲しみなんですね。万葉集では一番好きといってもいい歌は悲しみが極まっています。

   

  • 吾(あ)が恋はまさかもかなし草枕多胡(たご)の入野(いりの)の奥もかなしも

 「まさか」は今、「奥」は未来。つまり、私の恋は今もこれからもかなしいと歌っています。一度きりの命、一期一会と思う恋を凝視した時にわきあがる感情が切なさ、悲しさで、これが「孤悲」につながります。

 恋が苦しい、愛がつらいという歌もありますね。

    

  • 近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ

 近江の海に沈んでいる白玉のように、あなたを知らないで恋していたときより、深い仲になった今のほうが恋しく、胸が苦しいという意味です。

   

 私はこの文章を読み、大学生時代にはやったシャンソン歌手の岸洋子の「恋心」を思い出しました。「恋は不思議ね 消えたはずの 灰の中から なぜに燃える (中略) 恋なんて 悲しいものね 恋なんて 恋なんて♫」。恋の悲しみ、恋の苦しみを歌っています。演歌では美空ひばりの「悲しい酒」や、検索すると他の歌手の「悲恋」、「悲恋雀」、「悲恋半島」、「悲恋海峡」などでてきます。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」という甘い歌もありますが、日本人には恋が悲しい、愛がつらいという感覚が強いのかもしれませんね。

   

 第4章「実りをめざして~拓くころ」の“中国で開けた真理の扉”の節に、山上憶良の有名な歌に「瓜食(うりは)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ」があるが、なぜ瓜や栗を食べると子のことを思い出すのかがよくわからずにいた。その疑問は中国であっさり解けた。中国では、結婚式に瓜、栗などで四隅を飾る。「瓜」はうぶ声の「呱呱(ここ)の声を上げる」を連想させ、「栗」の音読み「リツ」は「立」と通じ、立子、つまり子を設けることの祈りなのだということで、真理の扉は思いがけぬところにあったのだと書いておられます。

   

 「雑」という言葉も、日本では雑音、雑多、雑念、雑談など、およそ役に立たないようなものばかりが登場するが、万葉集は「雑歌」に始まり、愛の歌、死の歌がつづく。愛の歌などにつづき、最後に「その他」の「雑歌」があるのなら理解できるが、巻頭に「雑歌」というのは今の日本人からするとかなり変であろう。でも中国では「雑」はすばらしい言葉で、辞書には「彩なり」とあり、多彩なすぐれたものを意味する。中国雑技団の妙技は多様のかぎりを尽くしたさまざまな技芸の取り合わせなのだと書いておられます。

   

 また、聖徳太子の十七条の憲法の中の十条「ふん(分の下に心)を絶ちしん(目の横に眞)を棄(す)てて人の違(たが)ふことを怒らざれ」について、心で怒ること、顔に出して怒ること、人が自分と違っていることに対して怒ることを戒めている。自分ができることを他人ができないと、「なんで、そんなこともできないのか」と怒る人がいるが、それは自分が賢い、偉いと思い、他人を愚かと思うからである。そして、自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争う。それがこうじると戦争になると話されています。

   

 「自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争う」ことは、私自身にも無きにしも非ずで、親子、夫婦、社員の間で、争いはしませんが自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒ることはままあります。そして、ロシアも中国も現在、まさに自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争っています。

   

 先月と今月のコラムは、中西進著「卒寿の自画像 わが人生の賛歌」を読んでのものですが、東京書籍:本体1400円(税別)ですので、ぜひ購入し読むことをお勧めします。日本語の豊かさを感じ、日本に生まれてよかったと思われることでしょう。