11月12日の土曜日、中学校の同期会に出席した。出席者は、男性が12人、女性が9人の全部で21人。
私は、富山に戻った昭和50年、28歳の年からずっと同窓会の学年幹事をしていて、同期会も私が段取りして2、3年に一度くらいのペースでお盆前に行ってきた。40歳を過ぎたころから、会場は同期の女性のIさんがお姉さんと一緒に営む料亭で行うようになっていたが、50歳になった年のこの席で、これからは毎年ここで行おうということになり、3年前まではその通りに実施していた。しかし、一昨年の6月にIさんが病気で亡くなり、同期会も中止した。その代わり、彼女と親しかった同期生が11月に同じ会場に集まり、彼女を偲ぶ会を行った。その席で、お盆よりもこの時期のほうが集まりやすいのではないかという意見が出て、今後は秋に同期会を行おうということになった。
ここ数年間、同期会の案内は亡くなったIさんの親友のUさんが行ってくれていたが、昨年はUさんの家庭事情と私の怠慢で行えず、2年ぶりの今年の開催となったのである。
東京、神奈川、名古屋、金沢と、県外からも8人が来てくれたが、久しぶりに参加した人にはお互いに誰だか分からないということで、自己紹介になった。
私が一人ひとり指名して、最初に女性、次に男性が自己紹介したが、男性の自己紹介では、私ともう一人がオーナー経営者、もう一人がそれに近い立場、また二人が開業医で、この5人が現役で毎日働いていた。しかし残りの7人は、会社を定年退職した後、同じ会社か関連会社で再雇用や嘱託として働いていたが、昨年64歳で、あるいは今年65歳になって完全に会社を離れ、年金生活になっていた。たまにアルバイト的に以前の会社を手伝っている人もいたが、「毎日サンデー」のようで、現役のころは精力的でギラギラしていた男性も、とても穏やかになっていたし、他の男性からも、リタイアするとこんな感じになるのかと思わされた。
県外から参加の同期生には、富山には実家が無くなってしまっていて、お墓参りをしてから同期会に参加した女性、また、実家はあるものの姉が管理していて、墓は自分の住むところに移した男性もいた。
早生まれの私は、かろうじてまだ64歳だが、今回の同期会ではこれまでのように再会を懐かしむことに加え、一般的に高齢者といわれる65歳から先の生き方を考えさせられてしまった。
国の財政難から年金も支給開始時期がどんどん遅くなり、支給額も減額される情勢にあって、65歳以降は、更には、75歳以降の後期高齢者(この後期高齢者という言葉を、聖路加国際病院の日野原理事長は老人に対する無礼な言葉であるとして、代わりに「新老人」と名付けられ、「新老人の会」を設立された)になってから、そして、85歳以上の末期高齢者(この用語はインターネットのWikipediaに出ていて、後期高齢者以上に老人を邪魔者扱いする実に心無い言葉だと憤慨した)になったら、どのように生きていきたいかと考えさせられた。
現在喜寿を過ぎている私の知り合いのお医者さんは、「俺は、若い時からずっと人の命を救うことを使命として一生懸命に働いてきた。十分に社会貢献してきたと思う。だから定年以降は仕事はせず、オッカアと旅したり、知人とマージャンを楽しんでいるんだ」と何度か言われた。それも、ひとつの考え方だと思って聞いていたが、今回の同期会での男性たちの話を聞いて、やはり、働いていることの方が私の性分にあっていると思った。
建設業にとっても介護事業にとっても非常に厳しい経営環境ではあるが、私が参加している勉強会の合言葉“75歳、現役バリバリ”を実践すべく、富山の社会基盤整備や維持のために、また、富山のお年寄りの幸せのために、がんばって仕事をしたい、そのためにも、もっともっと勉強しなければいけないと思った。
日本が超高齢社会となり大変だと騒いでいるが、考えてみれば、労働力の中核をなす生産年齢人口を15歳以上65歳未満と定義して、65歳以上は高齢者と位置づけ、働かないものと考えるから大問題になるのである。今よりももっと高齢化が進み、年金が当てにならない時代に高齢者になる当社の若手社員には、65歳になっても死ぬまで働き続けることが出来る能力と健康を身につけることを、若いうちから考え実行するように奨めたい。
このコラムが社内報LEMONに掲載され、給料日に社員の皆さんの目に触れるのは、10月23日に行われる「朝日建設創業70周年感謝の集い」の2日後です。
そこで今月のコラムは、「創業70周年感謝の集い」で私が行なう挨拶の準備を兼ねて、話す内容を箇条書きしたメモとします。(以下は、その後に修正を加えた実際の原稿です)
・ 朝日建設が創業してからの70年間をDVDで振り返りましたが、いかがでしたでしょうか?
・ 朝日建設の前身の「巴組」が昭和15年10月に創業し、それから35年目の昭和50年4月に私は入社した。それからさらに35年が経ち、今月創業70周年を迎えることになった。だから私は朝日建設の歴史のちょうど半分の35年間を朝日建設で勤務してきたことになる。そう思うと、これまでの会社の歴史と自分の人生が重ね合わさり、これからの80周年、90周年、そして100周年に向かって朝日建設をさらに発展させることが自分のこれからの人生だと思わされる
・ DVDで紹介されたが、祖父林銀蔵が昭和21年10月18日、巴組を組織変更して、株式会社朝日組を設立した。この朝日組の社名は「朝日のごとく社業が上昇するように」との願いと決意を込めて命名したもので、自分の苗字をつけて「林組」としたのではないところが凄い。そして、1年半後の昭和23年4月には現在の社名の朝日建設?式会社に社名変更したが、これまた「組」でないところが凄い。今でも、創業者の苗字と組をくっつけた社名の建設会社が多いことを思うと、終戦直後からの朝日建設の社名に誇りを感じ、ハイカラだった祖父を尊敬する。
・ DVDの後半でバックに流れた曲は、ジャズの名曲「Softly as in a Morning Sunrise」日本語で「朝日のようにさわやかに」である。私は本社の応接室で来客にこの曲を聞いてもらっているが、私はこの曲を勝手に当社のテーマ曲と言っている。それは「朝日のようにさわやかな会社でありたい」との想いからだが、祖父の「朝日のごとく社業が上昇する会社」の想いとどこかでつながっている気がして、「孫なんだなあ」と何だかうれしくなる。
・ 終戦の日からわずか2ヶ月後の昭和20年10月に巴組は富山市庁舎の新築工事を手がけ、?朝日組となった昭和21年秋には、北日本新聞社の木造2階建ての社屋を50万円で請け負うが、翌年夏の完成時までに原価が90万円かかったと「50周年記念誌」の中で先代社長が語っている。また朝日組は、富山市牛島での富山市立神通病院新築工事の1期、2期工事を請け負い、昭和22年8月に完成させているし、市営住宅の建設も行なっている。
朝日建設といえば、業界はもとより世間でも「舗装の会社」のイメージが強いが、設立時は建築がメインであったのである。そしてその後60年あまりの間に舗装工事、電気設備工事、護岸工事、下水道工事、富山空港滑走路舗装工事や嵩上げ工事、カラー舗装やエポキシ樹脂舗装などの特殊舗装工事、さらに近年は、富山北大橋と富山大橋の橋脚や橋台、そして昨年はライトレールの軌道敷工事を手がけるなど、建築工事から離れて、土木・舗装工事や電気工事を手がけてきた。
・ また、平成5年には前田道路と再生アスファルトプラント「とやまエコン」を共同企業体で設立し、平成13年には世紀東急工業、鹿島道路を加えた4社で「ほくりくエコン」を設立している。
・ 新分野にも進出し、老人介護事業を行なうために別会社朝日ケアを作り、平成15年から富山市北代で「あさひホーム」を、平成18年から富山市吉作で「あさひホーム吉作」を運営している。
・ そして今年は定款を変更して、先月から福祉用具の販売・レンタル事業を始めている。
・ 70周年に際して改めて創業から今日までを振り返ると、今述べたような施工する対象工事や新規事業だけではなく、内部的にもいろいろ変化があったことが思い出させられる。
・ 昭和43年の定年60歳の採用、昭和49年の定年65歳への延長、女性技術者の採用、昭和51年からのコンピュータの利用・活用、定昇・ベアの無い賃金制度の導入、新しい工事原価管理や工程管理手法の導入などである
・ 私は当社がそれほど大きく変わってきたとはこれまでは思っていなかったが、このように振り返ると、やはり変わってきた、また変わってきたからこそ、今も存続できているのだと思わざるを得ない。
・ DVDの最後のスライドは、今月の2日に北日本新聞に掲載された「新経済人」であったが、その中で「変わることに抵抗はない」と言っている。そのように言ったかどうか良く覚えていないが、確かに現状維持よりは変えることを選択してきたといえる。
・ しかし、記事の見出しの「改革続けて前進」に、改革とは大袈裟だと感じた。他の産業で行なわれている改革に比べれば、改革といっても高が知れている。保守的、現状維持的な会社が多い建設業界なので他社と違って見える程度だろうと思う。
・ でも折角記事の見出しに「改革続けて前進」とつけてもらったからには、これからは改革という言葉に値する改革を行っていきたい、そのためにも「改革恐れず前進」することを意識して経営に当たりたい。
・ 今日のパーティーを「感謝の集い」としたのは、現在の当社に関わっている社員の皆さん、そして協力いただいているアサヒ会の皆さんの誠実な働きがあってこそ、今日の日を迎えることが出来たとの想いからである。心から感謝の意を表するとともに、実行委員会が企画した今日のパーティーをぞんぶんにお楽しみいただきたい。
・ 創業100周年の時、私は93歳。90歳の父が本日ここに70周年の集いに参加したように、私は93歳で100周年の集いに参加したいと思う。その時のパーティーも、この電気ビルで行なうので、野上支配人さん、よろしくお願いします。
私は「新老人の会」富山支部の世話人代表として、10月17日(月)に、三重県志摩市のリゾートホテル賢島宝生苑で開催された拡大世話人会に出席した。拡大世話人会は例年3月下旬に行われるのだが、今年は3.11の大震災のため開催時期を遅らせ、10月の全国大会に合わせての開催となった。
「新老人の会」は、老人介護事業の朝日ケアとは少しは関係があると言えるが、建設業の朝日建設とはほとんど接点は無い。その「新老人の会」富山支部が先月9日に、「新老人の会」会長であり当時99歳で今月4日に100歳を迎えられた聖路加国際病院理事長の日野原重明先生の講演会を、高岡文化ホールで開催した。昨年7月に日野原先生から、今年9月9日の高岡での講演会を日程も場所も指定で指示され、開催に至るまでのその後のいきさつは先月のコラムに書いたが、その間の準備に要した時間と労力はそれなりのものがあった。
当社の専務に、「社長は老人でもないのに、なぜ「新老人の会」に入らなければいけないのか?」と何度か尋ねられた。これは、私が建設業界や経済関係の多くの団体に入り役職も務めている上に、ロータリークラブといったいくつかの社交団体にも入っているので、加入団体を減らすようにと常々注文されていて、その延長線上の発言であることは明白である。
10月16日の早朝、妻にJR呉羽駅に車で送ってもらった時も、「和夫さんで無ければ駄目なの?他の人に行ってもらう訳にはいかないの?」と聞かれ、「全国の支部の世話人代表が集まる会なのだから、本人が出るべきなのだ」と偉そうに返事した。
専務や妻からこの様に思われている「新老人の会」なので、出席するからには今後の支部活動の参考になる情報を得たいと思って、今回も出かけた。
近況報告では熊本支部からの、平均年齢73歳の40人の会員が3ヶ月間に35回の稽古をし、当日は日野原先生も60何歳かのジョン万次郎役で出演された“太平洋に架ける虹「ジョン万次郎物語」”の上演報告に驚かされた。
シンポジウム「いのちの大切さを伝えていくために」では、北東北支部からは先の戦争の間の子どもたちの体験記「われらの日々」の発刊、兵庫支部の「戦争体験を語り継ぐ会」の小学校での活動、熊本支部の「語り継ぐ戦争の記憶」の発刊などの活動報告、そして岡山支部と宮崎支部からは、会員自身による「いのちの授業」の実践活動が報告された。
初めて拡大世話人会に参加した一昨年は、各支部の報告を聞くにつけ、富山支部の不活発さを思い知らされ、昨年は、会員数が全国で最も少ない富山支部では何をするのも難しいだろうとあきらめの気持ちを抱かされた。しかし、9月9日の講演会の成功を受け、30名以上の新しい会員も加わった状況での今回の参加では、「新老人の会」の3つのモットー「愛し愛されること」、「創(はじ)めること」、「耐えること」の内の「創めること」として、反省会を兼ねた全体会を11月中に行い、今後の活動計画を協議し、次の時代をより健やかにする役割を担う活動を富山支部として心新たに創めよう、と思った。
新しい出逢いもあった。朝、近鉄賢島駅から会場の宝生苑へ向かうバスには、私の他は私と同年配の女性一人だけであったが、宝生苑で、会議場に向かうエスカレーターに乗りながら「どちらからお越しですか?」と尋ねたら「宮崎です」と答えられた。その方が、シンポジウムでの宮崎支部の発表者であり、会議が終わってからの昼食会では、同じテーブルに隣りあわせで座ることになった。名刺交換したら宮崎市にある医療専門学校の副校長とあるので、私が、建設業の他に老人介護事業もやっていると話すと、彼女の学校の母体も特別養護老人ホームを経営しているが、彼女自身は、民家を利用して、お年寄り5人を看取りまで考えての介護をしている。しかし、役所の制約を受けるのが嫌だから、介護保険の対象事業では行っていないとのこと。そして、良い介護をすればするほど経営は赤字との言葉に同感した。また、巻頭に「丁寧な死の看取りこそ、看護師の社会的役割」と題した文章が載った「新老人の会」宮崎支部の会報第5号を見せられ、「ヘルパーも吸痰などの医療行為ができるようになってくる時代に、看護師が生き残るには、看取りができることだと思う」と話された。
毎月本部から本部会報と一緒に各支部の会報も送られてくるが、支部会報は読んだことがなかったのに、なぜか宮崎支部のこの会報の巻頭の文章だけは読み、コピーして朝日ケアの介護部長に渡した記憶がよみがえった。これも縁なのだとつくづく思うとともに、本業だけでなく本業以外の活動も、精一杯上手にやろうと思う。これも、私が生きている証なのだから。