井上ひさし

2024.11.25

  先月のコラムのタイトルは「読書の秋」で、文章の最後は「社員の皆さんは、どれくらいの時間、本を読んでいますか?雑誌やコミック本は入りませんよ。」でした。 わたしが今読んでいるのは「井上ひさし ベスト・エッセイ」(井上ユリ編)です。この文庫本は、古志の国文学館で開催されている生誕90年 井上ひさし展の初日9月24日に文学館で買い求めました。

   

 文学館から送られてきたチラシには、「小説家、劇作家と幅広く活躍した井上ひさし(1934~2010)は、自ら遅筆堂を名乗るほど遅筆でした。しかし、その作品の完成度は高く、笑い、ことば遊び、パロディ、どんでん返しなど、ことばの魔術師と呼ばれるほど日本語の豊かさとおもしろさにあふれています。放送作家として手がけた「ひょっこりひょうたん島」は国民的人気番組となり、1972年に「手鎖心中」で第67回直木賞を受賞、1981年に刊行した「吉里吉里人」で、第2回日本SF大賞、第33回讀賣文学賞を受賞しました。1984年には劇団こまつ座を旗揚げし、「頭痛肩こり樋口一葉」「父と暮せば」など、演劇史に残る話題作を発表し続けました。」とありました。

   

 検索したら「ひょっこりひょうたん島」は、1964年4月6日 – 1969年4月4日に、平日17:45 – 18:00NHKテレビの子供の時間に15分間放送された番組で、無名の若手作家だった井上ひさしの名前を一躍有名にしたのが、児童文学の山元護久と組んで脚本を担当した連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」で、漂流する島が舞台の、奇想天外な物語。子どもの視点で社会や権威を風刺するセリフの面白さが大人にまでファン層を広げ、大ヒット。1969年までの5年間で1224回放送されました、とありました。当時高校2年生のわたしは、夕方のこの番組を楽しみにしていました。そしてこの番組で、登場人物にうってつけの声優、博士の声を務め後に参議院議員になった中山千夏や、トラヒゲの声を務めた熊倉一雄を知りました。

   

 初日の9月24日には、井上ひさしの奥さんのユリさんの記念講演「ひさしさんの思い出」があり、井上ひさしは本を書くのに徹底的に資料を集めたという話が印象に残りました。また11月2日(土)には、文学館で映画「父と暮せば」(原作:井上ひさし、監督:黒木和雄、出演:宮沢りえ、原田芳雄、浅野忠信)が上映されましたが、宮沢りえがきれいなだけでなく、演技がうまいことに驚きました。

   

 さて、今読んでいる「井上ひさし ベスト・エッセイ」の第一章 お話しを作る人が好き、の第一項『ハムレット』と『かもめ』の書き出しは、「シェイクスピアの戯曲『ハムレット』、この戯曲には、少なくとも11の筋書きが巧妙に溶かし込まれている。この11の筋書きを、五つのグループに分けて考えてみると、第1群は「仇討ち、あるいは復讐の物語」である。」で、中頃に「シェイクスピアには敵わぬまでも、いい話が書きたい、読者におもしろい物語を提供したいと、わたしもまた、それだけを目標に掲げて、ものを書いてきた人間の一人だが、いつだったか、「チェーホフも好きだ」と云って、その時集まっていた人たちから、「チェーホフの『かもめ』や『三人姉妹』のどこに筋書きがあるんだね。チェーホフこそ物語性を否定した一方の旗頭ではなかったかね」と、軽くからかわれた。そうだろうか、チェーホフも結構、物語が好きだったような気がする。(中略)相似点はまだまだあるが、とにかくわたしは『かもめ』を書いているチェーホフの机の上に、シェイクスピアの『ハムレット』がひろげてあっただろうと、ほとんど確信した。つまりチェーホフもまたシェイクスピアの筋書きの巧みさに憧れた一人だったのだ。・・・・ただ、これだけの話だが、好きな作家がともに筋書きを重視していたことを知って、それからのわたしは、しばらく幸福だった」で結んでいます。

   

 作家ですから多くの本を読むのは当然ですが、『ハムレット』と『かもめ』での考察を知り、次のエッセイが楽しみになりました。「風景はなみだにゆすれ」と「忘れられない本」では、わたしが大好きな宮沢賢治について書かれていました。宮沢賢治は岩手県の盛岡の出身で、井上ひさしは山形県で生まれています。わたしは、宮沢賢治に憧れて宮城県仙台市の大学に進みました。

   

 第二章は「ことば・コトバ・言葉」で、「書物は化けて出る」という、何とも興味をそそるタイトルの項では、売ったとたん、その書物が入用になる、という話です。古本屋で5千5百円で買い取ってもらった「圓朝全集」が後年また読まなければならなくなり、古書展に2万円で出ているのを発見し購入した。届けられた全集をめくっているうちに、トンチンカンな箇所に赤鉛筆で傍線がほどこされていて、この全集の前所有者はかなりの愚者にちがいないと思いつつ、さらに頁をめくるうちに出てきたのが、「日本放送協会」のネーム入りの原稿用紙一枚で、見覚えのある筆跡で「ひょっこりひょうたん島」の挿入歌が書かれていた。なんのことはない、小生はかつて自分が売った書物をまた買い込んでしまったのである。という話で、叩き売られた恨みを10年間も忘れずいまごろ化けて出るとは、女、いや書物というやつもずいぶん執念深いではないか。と結んでいます。思わず笑ってしまう何とも愉快な話ですね。

   

 第三章は「こころの中の小さな宝石」で、自分の生い立ちを語っています。井上ひさしは母子家庭で育ち、孤児院に入っていました。母親は商売上手で、水苔を乾燥させて月経バンドを作って大儲けし、男勝りの性格で井上組という請負業を行っていたこともありました。釜石市で屋台をやっていた時には暴力団に嫌がらせを受けましたが、銭湯に漬かっていた時に、男湯に暴力団の組長が来ていたのに気づき、男湯に押し入って、「いいところで会った。さあ、裸と裸で話をつけようじゃありませんか」。組長は前を隠しながら、「その度胸、気に入った」と言い、以後、いやがらせはふっつりとやんだということです。

   

 

これから「死ぬのがこわくなくなる薬」を読み、第四章「ユートピアの時間」、第五章「むずかしいことをやさしく」と読み進みますが、すっかり井上ひさしの世界に漬かっています。

展覧会は11月24日(日)までです。土曜日か日曜日に行かれることをお勧めします。

読書の秋

2024.10.25

 今月のコラムのタイトルは「読書の秋」です。今読んでいる本や、読んで面白かった本について書きます。そこで念のために「読書の秋」について調べてみました。わたしは単純に、秋は涼しくなって読書するのに適しているという意味だと思っていましたが、Chromeで言葉の由来を調べると、以下の様にありました。

   

 読書の秋は、秋の過ごしやすさを伝える意味で使われます。暑くて過ごしにくい夏にくらべて活動しやすい秋は、やる気も起こりやすく、集中力も持続しやすいでしょう。また、秋は夜が長く一人静かに過ごせる時間も増えます。静かで過ごしやすい時間が増えれば、読書もはかどることでしょう。つまり、「読書の秋」は、秋の過ごしやすさや夜の長さを表す言葉でもあります。読書は「夏の暑さが過ぎて、過ごしやすい季節が来たときに取り組みやすいもの」の代表格なのです。

   

 こうして調べてみて、わたしは過ごしやすい秋が来たから読書しているわけではなく、暑さや寒さに関係なく一年を通して、何らかの本を読んでいることに気付かされました。

   

 今読んでいるのは「三行で撃つ」です。この本の帯紙に次のように書かれています。 「朝日新聞」名物・名文記者の技巧25発。書くとは、考えること。書きたく、なる。わたしに〈なる〉ために。生まれたからには生きてみる。

   

 この本を紹介してくれたのは、以前「県内コレクターに聞く 収集の醍醐味」という記事にわたしを取り上げた北日本新聞社の女性記者です。私が毎月コラムを書いていることを知ってのことでしょう。316ページの分厚い本です。就寝前に30分ほど、あるいは出張の行き帰りの列車内で2時間ほどと読み進んでいますが、夏から読み始めて、今日現在216ページです。

   

 「はじめに」の最後は、「わたしが書いたのではない。言葉によって、書かされた。結果として、そういう本になったようです。今回も、また。」です。興味をそそられる文章ですね。

   

 著者の近藤康太郎さんは、猟師としても、連載コラム「アロハで猟師してみました」を担当していて、章立ても、第1章から第7章のそれぞれの節が第1発から第25発までと、猟師らしい表現です。この本のタイトル「三行で撃つ」は第1発で、この1発目の内容は「書き出しを外すと、次はない。」と書いてあります。そして、「文豪は浮気させない」で始まり「一発外すと、次はない」と続き、猟と文章は似ていて、「最初の一文、長くても三行くらいでしょうか、そこで心を撃たないと、浮気な読者は逃げてきます。続きなど読んでくれない。」として、吾輩は猫である。名前はまだ無い。(夏目漱石)、国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(川端康成)、木曽路はすべて山の中である。(島崎藤村)と、文豪たちの書き出しを挙げています。

   

 8月のコラムの書き出しは、「私は、土日はほとんどほとり座で映画を観ています。平日も退社後、ほとり座に出かけることがあります。」ですが、「三行で撃つ」を意識して書き出しました。今回のコラムの書き出しも、「今月のコラムは「読書の秋」のタイトルです。今読んでいる本や、読んで面白かった本について書きます。」で、「三行で撃つ」を意識しました。

   

 最近目にした新聞記事に「1日の平均読書時間についてみると、書籍が26分、雑誌が24分の計49分で前年より3分短くなっている。 1ヶ月間の読書量については、おおむね若い人ほど読んでおり、書籍についてみれば、10代後半2.2冊、20代2.3冊、30代1.6冊、40代1.4冊、50代1.4冊、60代1.3冊、70代以上1.0冊となっている。」とありました。案外多いと思いましたが、何ページくらいの本なのか、内容は重いものか、軽いものか、で読書時間は全く違ってくると思うのです。

   

 わたしは、「男はつらいよ」の主人公、フーテンの寅を演じた渥美清が大好きで、先月発行された「渥美清に逢いたい」はすぐに買いました。これは「男はつらいよ」の山田洋次監督と黒柳徹子の179ページの対談集で、2日ほどで読了しました。渥美清のことはたいてい知っているつもりでしたが、新しいエピソードもいくつかあり、ますます渥美清が好きになりました。

   

 社員の皆さんは、どれくらいの時間、本を読んでいますか?雑誌やコミック本は入りませんよ。

タローとクロスケ

2024.09.25

 今月9月2日、我が家の飼い犬クロスケが、15歳になりました。ほとり座で2回観た映画「石岡タロー」のビーグル犬の雑種のタローは81年の夏に18歳で亡くなりました。

   

  「石岡タロー」は、海外の映画祭で最優秀映画賞5冠、最優秀脚本賞1冠を獲得した映画です。この映画は、子犬の頃(その頃の名前はコロ)の飼い主である幼稚園年長組で当時5歳の成島恭子ちゃんへの愛と忠誠心を貫いた犬の一生を描いた実話です。タローが少女と過ごした子犬時代、タローが茨城県石岡市の石岡東小学校ですごした成犬時代、タロー没後の後日談、少女が離れ離れになったコロの消息を知るまでと、時の流れに沿って展開します。

   

 長くなりますが、ネットで「石岡タロー」を検索した結果と私の記憶でのタローの生涯は、以下の通りです。

   

 コロは63年に生後4カ月で恭子ちゃんの家にやってきました。当時5歳だった恭子さんは。自宅から200メートルの鹿島鉄道(07年に廃線)玉造町駅で電車に乗り、幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていました。玉造町駅への送迎は、家業の陶磁器店で忙しい両親に代わって、コロがしてくれました。毎朝、一緒に電車に乗り込んできて、恭子さんが座席に着いて頭をなでてやると、電車を降りて引き返して家に戻り、帰りは玉造町の駅に出かけ待合所で待っていました。

   

 翌64年のある朝、電車の車内が混雑していてコロは玉造町駅で降りられず、石岡駅までついてきてしまいます。「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれた恭子ちゃんは、犬を乗せたことを怒られると思って首を振りました。コロは追い払われてしまいました。

   

 恭子ちゃんはショックで熱を出し、10日間寝込こみました。お父さんはスクーターに乗って、石岡駅周辺へ6回も捜しに行きました。コロは教室をのぞきに3度、幼稚園に現れましたが、園が捕捉しそこねてしまい、その後の消息はつかめずにいました。

   

 その年、石岡東小学校の用務員のおじさんが、道端で中学生に針金で首をまかれ怪我をして放置されていたコロを保護し、用務員室で一緒に寝ていました。夜間の構内の見回りにもついてきました。しばらくして、朝夕の石岡駅通いを始めました。一方、恭子さんは翌年に卒園すると、石岡駅を使うこともなくなり、コロを見ていません。

   

 石岡駅の改札の駅員は、当初は駅長に、「犬が駅の中にいてよいのですか」と聞き、タローの写真を撮りました。しかし駅長はタローも乗客の一人だと答えたのです。

   

 同小創立50周年に、石岡東小学校を定年で退職していた校長先生の小学校での想い出としてタローのことが語られ、地元の新聞に載った橋本校長先生と、駅員が撮った「タロー」と呼ばれた犬の写真を見て、コロに間違いないと恭子さん(撮影時50)と両親は確信しました。

   

 コロは81年の夏に死ぬまで石岡駅に通い続け、ずっと自分を捜していたと思うと、恭子さんは胸が痛み、「あの時、駅員にウソさえつかなければという45年間抱き続けてきた自責の念にさいなまれ、もっと捜せばよかったと改めて思います。でも、コロがみんなに愛されていたとわかり、救われる思いがします」と語っていました。

   

 タローは石岡市で保護されてから、賢い行動で児童を出迎えたり、教室をまわったりして、小学校の人気者となりました。ある日から、タローは小学校から石岡駅までの約2キロの道のりを毎日朝と夕の2回往復する日課を始めるようになりました。これは、子犬の頃に離れ離れになってしまった飼い主を待っていたと考えられています。

   

 学校の正門を出て歩道橋を駆け上り、車の多い国道6号を西へ向かう。横断歩道を渡って坂を下り、交差点を右折、常磐線の踏切を渡ると駅が見えてきます。赤と青を見分け、ちゃんと信号を守っていました。

   

 先生や児童たちみんなに愛されていました。たいていは職員室の教頭の机の下にいて、登校時間になると、1年生の教室を順番に回る。自分で戸を開けて入り、教室の隅で児童を見守りました。昼休みは校庭で「給食」。好物のマーガリンと飲み残しの牛乳を子どもたちにもらっていました。

   

 タローは地元の駅前商店街の人たちにも可愛がられていました。石岡駅に向かう道すがら、その商店街で、寄り道をして帰ることもありました。駅前の定食屋とそば屋はなじみの店で、よく立ち寄ってはごちそうになっていました。焼鳥屋の前にはタローと書かれた丼鉢に餌が入れられ、その餌を食べていました。タローはそんなときは帰りが夜7時を回っていました。しかし、死ぬ前には、丼鉢の餌も食べなくなりました。

   

 72年に校長として赴任した橋本さん(撮影時88)は、タローとの8年間の思い出を大切にしています。夏休みのある日、「店の玄関にお宅の犬がいる」と駅前のスーパーから電話があり、迎えに行くと、店内から流れてくる冷房の効いた風を受けて、ちゃっかり涼んでいたということです。

   

 「犬はつないでおいて下さい」と保健所に2度、注意されました。しかし、小学校を卒業し中学生になっていた生徒が、校門の前で「小学生の時は、タローいて楽しかった」と話すのを聞いたことから、「小学校は児童と教師とタローで成り立っています。黙認してほしい」と嘆願しました。保健所長は黙って帰りました。主人を思って駅へ通っていたというのが地元の見方で、「そう思うと不憫(ふびん)でね。そんな犬を鎖でつないでおけますか」。橋本さんは保健所の指導に背いたことをいまも後悔していません。

   

 ある時、授業参観をしていた母親が、犬が教室にいることを嫌がり、犬にかまれたと嘘の電話を動物愛護管理センターにし、捕獲員がやってきて、タローを捕獲しました。用務員のおじさんは、娘さんから、タローが何日も戻ってこないと言われ、どこかで迷っているのだろう、そのうちに帰ってくるよ、と答えました。しかし、もしかしたらと、動物愛護管理センターに電話したところ、捕獲された犬は一週間飼い主が現れなかったら、翌日に殺処分されると聞き、殺処分される前日にセンターに行きました。檻が満員なので他の動物愛護管理センターに移したとのこと。再びそのセンターに行くと、檻の中に他の捕獲された犬と一緒にいるタローを見つけました。タローが尻尾をふって用務員さんのところに駆け寄ってきたのを見た職員は、飼い主だと分かり返されました。

   

 晩年のタローは一日中、用務員室で寝ていました。しかし、時間になると起き上がり、学校を出て行く駅通いは、動けなくなるまで続きました。しかし最後まで「主人」が現れることはなかったのです。

   

 橋本さんが退職した翌81年の夏、タローは死にました。全校生で追悼式をして土浦市内の寺に葬ったとのことです。

   

現在、石岡駅前広場には子供二人とタローの銅像が建てられています。

新聞を見た恭子さんが新聞記者に、自分が飼っていた犬だと話すと、新聞を読んだ地元の人たちが恭子さんに会いたいと言い出し、石岡駅の横断歩道橋の上で会うことになります。これがラストシーンでした。

一方、我が家のクロスケは、名前を呼んでも振り向きもしません。きっと、小さい時に名前を呼び、振り向いたら餌を与えていたら、自分がクロスケだと認識できたのだろうと、妻は言います。

   

 また、まだ15歳なのに、朝晩の散歩の時間以外は、玄関の中で寝ています。一日に22時間は寝ているだろうと思います。玄関の外にいるときは、門の所に宅急便の配達員がやってくると大きな声で吠え、配達員が来たことを妻に知らせてくれます。私にとっても、朝の40分ほどの散歩は良い健康法です

   

 小型・中型犬の年齢は、24+(年齢−2)×4で計算するようで、計算すると今15歳のクロスケは人間に換算すると、24+(15−2)×4=76になります。私が今77歳ですから、私とクロスケはほぼ同じ年齢ということになります。

   

 クロスケはあと3年で、タローが亡くなった年齢と同じ18歳になります。私は3年経てば80歳の傘寿(さんじゅ)になります。お互いに元気で80歳を迎えましょう。