立野ダム

2023.07.25

 6月29日から九州地方を中心に大雨になりましたが、このニュースを聞いて直ぐに思ったのが6月2日から第1班、3日から第2班に分かれて総勢49人で出かけた熊本・大分への社員旅行で訪れた立野ダムのことでした。

   

 当社の社員旅行は、以前は観光地に出かけ宴会をするだけでしたが、2013年に東日本大震災の被災地を訪れ建物や土木構築物の破壊状況を見てからは、社員旅行の目的を観光だけではなく、それにプラスして土木構築物を見たり文化に触れたりすることにしました。旅行会社は私が所属する富山みらいロータリークラブの友人が経営するエヌトラベルですが、彼の企画で2019年には高さ18m、重量500tの巨大な59本が天井を支える光景が神殿のように見えるので地下神殿と呼ばれる首都圏外郭放水路を見学し、その後は浅草で芸者さんをあげて宴会をしました。

   

 今年の社員旅行の熊本・大分の企画書に、2016年4月に発生した大地震で被害を受けた熊本城の見学と熊本県南阿蘇村にある立野ダムが書かれていました。立野ダムは聞いたことのないダムでしたが、パンフレットの工程予定表には「立野ダム工事現場視察」今しか見られない工事現場・普段は水を貯めない“洪水調整ダム”と記されていました。

   

 私は1班で出発し2班で帰ったので立野ダムは2度見学し、ボランティアガイドさんからの国交省立野ダム工事事務所や現地での説明でダムの目的と構造はよく理解できましたが、実際に洪水が起きた時のことは想像できませんでした。そこに、冒頭に記した6月末の大雨です。早速、「熊本、立野ダム、大雨」と入力したところ、熊本の国営立野ダム、初の洪水調節 熊本の国営立野ダム、初の洪水調節 白川の流量カット、国交省「機能発揮した」のタイトルの2023年7月1日 の熊本日日新聞の以下の記事が見つかりました。

   

(以下、記事全文)

   

 国土交通省は6月30日までに降った大雨で、白川上流の国営立野ダム(熊本県南阿蘇村、大津町)が初めて白川の流量をカットし、洪水調節をしたと明らかにした。4月に本体のコンクリート打設が完了し、洪水を調節できる状態になっていた。

    

 立野ダムは、熊本市街地などの洪水防止を目的にした治水専用の流水型ダム。本体に約5メートル四方の穴が三つあり、普段は貯水せず、大雨時は穴を流れきれない水が自然にたまる仕組み。

   

 国交省立野ダム工事事務所によると、ダム上流域の28日午前4時から30日午後7時までの総雨量は276ミリ。30日午後5時40分から同7時まではダムへの流入量が穴からの放流量を上回った。

   

 30日午後6時半の時点では、流入量が毎秒861トンだったのに対し、放流量は同828トンで33トンをカットした計算となる。ピーク時には、ダムの水位が平常時から約22メートル上昇して52万6千トンを貯水。総貯水量(1010万トン)の約5・2%だった。

   

 同事務所は「ダムが洪水調節機能を発揮したと考えている」としている。(東誉晃)

   

(ここまで)

   

 そして、平常時と洪水時の写真が載せられていたが、旅行で見た「平常時」が、今回の大雨でこのような「洪水時」に変わったことに、このダムの目的が達せられたことと土木の重要性を改めて感じました。皆さんはいかがですか。

   

蛇足:話がとても面白かった1班のバスガイドさんの、立野ダムに関する話

「立野の地名は阿蘇山に住む神様がふもとに降りてきたときに転んで立てなかったので、この地が、立てんのう⇒立野 と名付けられた」

「立野ダムの総工費は1,270億円。1,270円ではない。奥(億)が深い」

   

セールス・ガールの考現学

2023.06.26

 このコラムで映画について書いたのは、昨年は3月の「『禁じられた遊び』とウクライナ」、5月の「『ほとり座』での映画鑑賞」、10月の「こちらあみ子」の3本でしたが、今年に入って既に1月の「81+5」、2月の「チョコレートな人々」、3月の「そばかす」と3カ月連続で書いています。4月、5月は高志の国文学館の中西進館長に就いて書きましたが、今月は執筆する時間が無いので、また映画について書きます。

   

 5月26日からロータリーの世界大会に参加するためオーストラリアに出かけ、5月31日の昼前に帰宅して午後2時間半と6月1日の1日半仕事をし、また社員旅行で1班と2班の両方に3泊4日で参加したので、今年は去年ほど映画を観ていないのかと思っていましたが、今年1月から観た映画は今月のタイトルの「セールス・ガールの考現学」を入れて41本になり、この後も3本観ますので6月末には44本になります。でもこれまでに観た41本の映画のタイトルを見て内容を思い出せるのは10本くらいです。しかし「セールス・ガールの考現学」は来年になっても思い出せる映画になると思います。

   

 この映画は、ほとり座で予告編を観たときから絶対に観ようと決めていました。それはモンゴルでも映画が作られているのだと思ったことと、アダルトグッズ・ショップでアルバイトをする主人公の清楚な女子大学生に対して、謎のオーナーの中年の女性が「セックスショップはポルノ店じゃない。薬局よ」という言葉に興味がひかれたことによります。

   

 モンゴルと聞けば、大関に昇進した霧葉山や元横綱の白鵬や鶴竜、そして朝乃山が6連敗している横綱照ノ富士を思い浮かべ、草原を馬に乗って駆け回る光景を思いますが、この映画の舞台は高層ビルが立ち並ぶモンゴルの首都ウランバートルです。チラシから引用すると「モンゴル映画のイメージを鮮やかに覆す、軽やかで、キュートで、ちょっぴりおかしな成長の物語」であり「自分らしく、自由に生きるためのヒントがいっぱい!新星ヒロインと30年ぶりに銀幕復帰のベテランの最強シスターフッド!」(注:シスターフッドはsisterhoodで、女性間の連帯、女性同士の共感の意味です)。また、「オーナーが繰り出す、機知に富んだアドバイスの数々は説得力抜群です」とあり、人生のプロ、カティア(オーナーの名前)に学ぶ愛と性についての名言集の一つの「ボンヤリしないで。うつむいて自分の靴を眺めている間に、大切な時間は過ぎて行くわ」に、フーテンの寅の言葉「人生についてようく考えろって。ぼけっとしてる間に、あっという間に骸骨になっちゃうんだから、人間は」が重なりました。「若過ぎる成功は害になる。成功するために若さを犠牲にしてはダメよ」に、そうかもしれない、そんな例も身近にあったと思い、「親の言いなりなんてナンセンス。遅かれ早かれ、子供は自立して行くんだから」には、さて自分はどうだったかと思わされました。

   

 こんな風に書けるのも映画を観た後にチラシを持ち帰ったからであり、チラシを読んで映画が伝えたいところを知ることが出来たのです。観ているときは画面に引き込まれ、チラシにあるようなことは思いませんでした。でも、もしチラシを読んでから映画を観たらどうだったかなと思います。深く味わえるかと思いますが、私の場合は「頭で観る」という観かたになって、映画の楽しさが減るのではないかと思います。これからも、毎月の映画予定表にある数行のあらすじで観るか観ないかを判断しましょう。

「中西進のメッセージ」その2

2023.05.25

 先月のコラムの最後に、「来月は、高志の国文学館の書籍販売コーナーで買った中西先生の著「卒寿の自画像-わが人生の賛歌」で知った、言葉の意味について書きましょう」と記しました。早速、書いていきましょう。

   

万葉集は恋歌の多さで知られています。山部赤人にはこんな歌があります。

第3章の「花の咲くとき」に“日本の恋は「孤悲」”という節があります。書き出しの部分をそのまま書き写します。

   

  • 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

 明日香川の淀みにいつも立ち込めている霧のように、わが恋もすぐに消えてなくなるようなものではありません、という意味です。この恋は万葉仮名では「孤悲」と表記されています。

 古代から日本では、恋の本質は孤独な悲しみなんですね。万葉集では一番好きといってもいい歌は悲しみが極まっています。

   

  • 吾(あ)が恋はまさかもかなし草枕多胡(たご)の入野(いりの)の奥もかなしも

 「まさか」は今、「奥」は未来。つまり、私の恋は今もこれからもかなしいと歌っています。一度きりの命、一期一会と思う恋を凝視した時にわきあがる感情が切なさ、悲しさで、これが「孤悲」につながります。

 恋が苦しい、愛がつらいという歌もありますね。

    

  • 近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ

 近江の海に沈んでいる白玉のように、あなたを知らないで恋していたときより、深い仲になった今のほうが恋しく、胸が苦しいという意味です。

   

 私はこの文章を読み、大学生時代にはやったシャンソン歌手の岸洋子の「恋心」を思い出しました。「恋は不思議ね 消えたはずの 灰の中から なぜに燃える (中略) 恋なんて 悲しいものね 恋なんて 恋なんて♫」。恋の悲しみ、恋の苦しみを歌っています。演歌では美空ひばりの「悲しい酒」や、検索すると他の歌手の「悲恋」、「悲恋雀」、「悲恋半島」、「悲恋海峡」などでてきます。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」という甘い歌もありますが、日本人には恋が悲しい、愛がつらいという感覚が強いのかもしれませんね。

   

 第4章「実りをめざして~拓くころ」の“中国で開けた真理の扉”の節に、山上憶良の有名な歌に「瓜食(うりは)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ」があるが、なぜ瓜や栗を食べると子のことを思い出すのかがよくわからずにいた。その疑問は中国であっさり解けた。中国では、結婚式に瓜、栗などで四隅を飾る。「瓜」はうぶ声の「呱呱(ここ)の声を上げる」を連想させ、「栗」の音読み「リツ」は「立」と通じ、立子、つまり子を設けることの祈りなのだということで、真理の扉は思いがけぬところにあったのだと書いておられます。

   

 「雑」という言葉も、日本では雑音、雑多、雑念、雑談など、およそ役に立たないようなものばかりが登場するが、万葉集は「雑歌」に始まり、愛の歌、死の歌がつづく。愛の歌などにつづき、最後に「その他」の「雑歌」があるのなら理解できるが、巻頭に「雑歌」というのは今の日本人からするとかなり変であろう。でも中国では「雑」はすばらしい言葉で、辞書には「彩なり」とあり、多彩なすぐれたものを意味する。中国雑技団の妙技は多様のかぎりを尽くしたさまざまな技芸の取り合わせなのだと書いておられます。

   

 また、聖徳太子の十七条の憲法の中の十条「ふん(分の下に心)を絶ちしん(目の横に眞)を棄(す)てて人の違(たが)ふことを怒らざれ」について、心で怒ること、顔に出して怒ること、人が自分と違っていることに対して怒ることを戒めている。自分ができることを他人ができないと、「なんで、そんなこともできないのか」と怒る人がいるが、それは自分が賢い、偉いと思い、他人を愚かと思うからである。そして、自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争う。それがこうじると戦争になると話されています。

   

 「自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争う」ことは、私自身にも無きにしも非ずで、親子、夫婦、社員の間で、争いはしませんが自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒ることはままあります。そして、ロシアも中国も現在、まさに自分だけの正義を信じ、相手を見下し、怒り、争っています。

   

 先月と今月のコラムは、中西進著「卒寿の自画像 わが人生の賛歌」を読んでのものですが、東京書籍:本体1400円(税別)ですので、ぜひ購入し読むことをお勧めします。日本語の豊かさを感じ、日本に生まれてよかったと思われることでしょう。