3.11東日本大震災の想像を絶する被害の映像を見て、出来るだけ早い支援をと思い、震災発生3日後の3月14日の月曜日に、会社と社員有志の義援金を北日本新聞社に届けた。
それから今日まで2ヶ月以上たったが、この間、毎朝犬と散歩しながら、被災地のことや被災された方々のことを思わない日はない。寒い朝には、東北地方はもっと冷え込んでいるだろう、避難所の体育館はさぞかし寒かろうと思い、4月に入って暖かくなってきたら、この明るい太陽の日差しが、被災地にもっともっと降り注ぐようにと願った。そして、自分にはどんな支援ができるだろうかとも考えていた。
個人的には、ロータリークラブの会合などや街頭、あるいは飲み屋に置かれた募金箱へ何がしかの寄付をしてきた。また、3月は全国的に各種の催し事やパーティーが取りやめになり、私自身も飲みに出る気分にならず、飲み会への誘いを断っていたが、これが日本経済全体にとっては「自粛不況」となり、決して大震災の復興のためにはならないという意見に同感し、3月下旬からは、再び飲みに出るようになった。
5月の富山と八尾オフィス、そして本社での朝礼で、震災復興のためには、当社がしっかり利益を出して納税し、それが震災復興の財源になるようにしなければいけない。そのためには、クッション・ゼロ式原価管理を実践する手法として今年から取り組んでいる「現場NOTE」を早く使いこなすようにすることだ、と話した。
しかし、こんなことでよいのだろうかと思ってもいた。被災地に救援物資を運んだり、被災地で炊き出しをしたり、瓦礫の撤去を手伝ったりするなどもっと直接的な支援をすればよいのだろうけれど、経営を考えると、個人的にも会社としてもなかなか出来ないと、恥ずかしさともどかしさを感じていたとき、以前聞いたニュースが頭に浮かんだ。それは、東北地方には良い温泉がたくさんあるが、今回の大震災ですっかり客が来なくなった。ぜひそこに行って飲食したり土産を買ったりしてお金を使ってほしい、そして、宴会だけでなく、被災地の様子も見ていってほしい、というような内容であった。
私は、震災発生以降、社員の子供さんの誕生日祝いメールには、必ず震災に触れ、「Nさんは中学2年生。部活は何をしていますか?東日本大震災関連のニュースに、中学校のソフトボール部の部員が、つぶれた部室の跡から、泥に汚れたバットやグラブなどの用具を見つけ出して洗っている様子が報じられていました。また、小さな子供達に絵本を贈り、読み聞かせしているという富山のボランティアの話も、新聞で読みました。日本の国難を乗り切るのは、これからの若者達です。Y家では、日本の復興のことを話題にしていますか?是非、話題にして、家族みんなで考えてみましょう。」などと書いている。これと前述のニュースがドッキングした。家族で現地に出かけ、被災地の状況を見て、テレビの画面からは分からない臭いをかげば、家族の一人ひとりが震災復興について考え、それぞれの立場での支援行動につながるのではないかと思ったのだ。
そこで、5月13日の経営戦略会議の席で、「今年の経営環境は昨年よりさらに厳しく、12月決算では赤字も予測される。しかし、東北地方に同僚や家族と旅をし、温泉などでお金を落とし、被災地を自分の目で見てきた社員に対して、会社から家族も含めて経費の補助をしようと思う」と提案したら反対意見は無く、止めて久しい会社の慰安旅行を被災地にすればよいのではないかという意見も出た。
5月14日の朝日新聞の「be」の紙面に、やってみたいボランティアのランクが出ていた。編集部が用意した36の設問肢の中から選ばれた回答は、1位:節電、2位:救援物資の整理、3位:風評被害に遭った商品を買う、と続き、10位:避難所のお掃除などお世話、であったが、17位に、「被災地に旅行してお金を使う」がランクされていたのを見て、私のアイデアの実行に確信が持てた。記事の中に、「ボランティアの『vol(ボル)』は、英語の『will(ウィル=意思)』の意味で、ボランティア活動は、命じられてするのではなく自発的にする、『ほっとかれへんからする』ということです」とあった。
社員の皆さん、これは命令ではありません。会社が経費補助という後押しをちょっとしますから、夏休みなどに時間を作り、一人でも、家族でも、あるいは会社のグループでも何でも結構ですから、東北地方に旅しませんか。関連記事(富山新聞:東北の祭りにいらっしゃい/日本経済新聞:東北支援へ割安ツアー)
私は、47年前の高校3年生のとき、大学の受験勉強の合間に宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」を読んだ。この作品がとても心に響き、次に賢治の詩を何篇か読んだ。詩の中に登場する東北弁が心地よく感じられ、作品の舞台である東北地方に惹かれた。そして、東北大学に行きたいと思った。
3年生の学力試験の成績はだんだん下がりで、志望校を決める時点での学力では東北大学経済学部は危なかった。しかし全国模試でのA判定を信じて受験した。
受験には母が同行してくれたが、上野から仙台に向う列車の中は東北弁が飛び交っていた。母は、「何を話しているのか全然分からない」と言ったが、私には東北弁がなぜだか懐かしさを伴って耳に入り、話の内容が全て理解できた。賢治の作品を読んでいたからだと思った。
うまく東北大学に入学できた私は、体を鍛えようと柔道部に入り、そこで同じ経済学部の和田君に出会った。彼は大変な文学青年だったが、教養部2年生の時、3年生からの学部では専門の勉強に専念することになるので、教養部でもっと幅広く勉強したいという理由で留年した。オッチョコチョイの私は彼の考えに共感し、私も留年しようと父に電話したら、「馬鹿者」と一言で退けられた。ならば学部で留年してやろうとひそかに決めて、4年生のときに1科目だけ残して計画的に留年した。親には、経済学をもっと勉強しようと思うと言っての留年であり、自分自身もそのように考えていたが、学生に対して親切な仙台の人たちの人情や、東北の風土から離れがたくての留年であったことは、2回目の4年生のときの勉強態度から明らかである。
そんな私は、5年間も仙台にいて、有名な七夕も風光明媚な松島も一度も見たことが無かった。しかし、卒業前年の昭和44年の秋、宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市をぜひ訪ねたいと、今でも思い出に残る4泊5日の岩手県一人旅をした。
学生手帳に書き込んだメモによれば、初日は岩手県一関に向かい厳美渓を見た後、平泉に行き、高館義経堂と中尊寺を回って盛岡で泊まった。二日目は、小岩井農場に出かけ、牧場に寝転び、賢治の作品に登場する岩手山をながめながら、賢治の詩を読んだ。この日の宿泊は宮古。三日目は、バスに乗って陸中海岸国立公園の中心をなす宮古の代表的な景勝地浄土ヶ浜に出かけ、遊覧船で巡る。バスと遊覧船で一緒になった一人旅の女性に心惹かれたと書いている。その後、釜石に向かい魚市場などを見物してから、柳田国男の「遠野物語」で有名な遠野に行って泊まった。翌日は、遠野の福泉寺に出かけ、福泉寺にある新四国八十八カ所霊場を参詣してから、「遠野物語」にでてくる狐でも飛び出してきそうな山間を、汽車で花巻に向かう。花巻の先の台温泉で宿を探すが、11月2日、3日の連休前の土曜日のため、どの宿も満員。やっと自炊旅館を見つけて泊まったが、部屋の床が傾いていたことを思い出す。そして最終日は、花巻に戻って、賢治ゆかりの場所をまわった。「雨ニモマケズ」の詩碑が建つ羅須地人協会(らすちじんきょうかい)跡で賢治の童話を読んだとメモしている。その後、北上川をさかのぼって、賢治が「イギリス海岸」と名づけた場所を見る。「北上川は、おだやかな良い川だ」とメモにあった。
私が大好きなこの東北地方が、3月11日に発生した東日本巨大地震で壊滅状態になってしまった。私が訪れた宮古や釜石でも、多くの方が亡くなり行方不明になっている。
私は、東北地方の復興には、地震や津波を、これまでのものよりも格段に大きく強固な防波堤などで真正面から防ごうとするのではなく、上手にかわすことを考えることがひとつのポイントだと思う。それを踏まえた上で、東北地方のそれぞれの地域が持つすばらしい文化や伝統を途絶えさせないようにするには、どのような形で街づくりをすればよいかを考えることが大事ではないかと思う。
そこへ、菅直人首相が13日、福島第1原発周辺の居住が長期間困難になった場合の移住先として、内陸部に5万〜10万人規模のエコタウンを建設する構想の提案に賛同した上で「市の中心部は、ドイツの田園都市をモデルに考えたい」と述べたとの新聞記事である。こんなことが軽々しく発言され実行されたら、東北地方の文化は死に絶えてしまうだろう。
賢治の作品の中に繰り返し出てくる「イーハトーブ」は、「岩手」をもじって賢治が造った言葉で、賢治にとっての理想郷である。この「イーハトーブ」を深く理解し、そして実現することが、亡くなった方々の魂に報いる道ではないかと思っている。
東日本巨大地震が発生した3月11日(金)の午後2時46分頃、私は本社4階の会議室で午後1時から始まった「現場NOTE」導入プロジェクト会議に冒頭の1時間だけ参加した後、2階でデスクワークをしていた。地震発生時刻に揺れは全く感じなかったが、会議終了時刻の5時前に再び顔を出したら、東北地方で大地震が発生したと会議メンバーが教えてくれた。4階ではかなりの揺れは感じたが、2軒隣のビルの解体工事の揺れだと思ったとのこと。しかし、地震発生後すぐに隣室の営業部から情報が入って地震と分かり、会議を中断してテレビで津波の実況中継ニュースを見たと言う。そこで私もテレビを点けたら、津波が家や車を飲み込みながら田んぼを進んで行く凄まじい画面が飛び込んできて、言葉を失った。
その後テレビはどのチャンネルも地震のニュースだけになり、死者、行方不明者の数は増え続け、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震による被害は、太平洋沿岸部の都市を軒並み文字通り壊滅状態に陥れた。
翌日の12日、私は午後から本社で、土曜日の日課となっている週間スケジュール表のチェックや確定申告書をe-Taxで作成していたが、巨大地震が頭を離れず、会社として、個人として何ができるだろうかと考え、とりあえず14日の月曜日には緊急の役員会を開き、義援金を贈ることを決めようと思った。帰宅したら、本日の午後、東京電力の福島第一原子力発電所の1号機で、爆発により炉心溶融の疑いを含む大事故が発生したとニュースで知った。
そして日曜日の13日、私は大学に進学する次男の住むマンションを決めるために、彼と滋賀県の草津市に出かけた。順調にマンションを決め契約手続きを済ませ、午後5時過ぎに南草津駅行きのバスを待っていたところに、専務から携帯に電話。「何かあったな」と思いながら電話に出ると、国土交通省と防災協定を結んでいるF建設の社長から、災害救援のため明日の昼出発する部隊に、当社からもオペレーターを一人派遣してほしいという実に急な要請をされたとのこと。できるだけ協力するようにと専務に指示したが、結果が気になり、富山に帰るJRの中から専務に携帯メールしたところ、Tさんが行ってくれることになったと9時前に返信メール。ホッとすると同時に、Tさんに“ありがとう”との思いがこみ上げた。
14日の月曜日、8時からの緊急役員会で、社員として10万円、会社として40万円の義援金を贈ることを決めた。S部長と一緒にやってきたTさんには、しっかり任務を果たしてくるようにと声をかけ、握手した。そして、昼には、北日本新聞社に50万円を届けた。
その後、津波による被害が増大し続け、福島第一原発の事故は日に日に危機的な状況になっていった。「日本沈没」の言葉もふっと頭をよぎるが、そんな悲観的な気持は払拭して、何としても復興させなければならないと、日本国民の一人として思う。
復旧にはどのくらいのお金がかかるだろうかと、改めて、「公共事業が日本を救う」を読み返したら、以下の数字が目に留まった。
・ 利根川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約34兆円で、荒川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約33兆円で、この両方が同時に生じてしまうと、最悪の場合、約70兆円近くもの被害を首都圏住民は被ることになる。
・ 阪神淡路大震災では、6434名もの人命が奪われ、約11万棟が全壊・消失し、経済的損失は14兆円と試算されている
・ 首都直下型地震の被害想定では、経済損失は実に112兆円の試算もなされている。
私はこれらの数字から、今回の東北、関東を襲った巨大地震の経済的損失は、わが国の国家予算の約90兆円を軽く上回るのではないかと思う。
「公共事業が日本を救う」の7章「巨大地震」に備える の書き出しは、“地震から「絶対に」逃れられない国、日本”であった。だからこそ、日本の復興、そして日本の発展のために、個人として、建設経営者として、果たすべき役割は多いと思う。未来に希望を持ち、責任ある人生を歩まなければいけない。