息子の起業

2010.02.01

本年1月9日大安の土曜日に、長男の悠介が民芸品などを扱う店「林ショップ」を、総曲輪の西別院が所有する貸し店舗で開店した。彼は7年前の2003年3月に金沢美術工芸大学の環境デザイン科を卒業したが、就職せずに自宅に戻り、時々アルバイトをしながら、学生時代にのめり込んだ写真を続け、撮った写真をコンクールに応募したり、金沢で個展を開いたりしていた。写していたのは、魚津の蜃気楼や近所のため池で採ったミジンコ、あるいはファミリーパークのキリン、はたまた天文台に出かけての土星など様々だった。
  長男と同じ23歳で大学を卒業した私の場合は、4年生になり就職活動を始める時に、朝日建設の社長であった父親に、「朝日建設を継がなければいけないのなら、よその建設会社に腰掛けで就職するのは悪いと思うが、どうなのか?」と尋ねたら、「別に継がなくてもいい。好きにしたら良い」との返事だった。
  私は銀行や商社ではなく、もの作りをする会社に勤めたいと思っていた。同じ思いの経済学部の同級生は製鉄会社や電気メーカーを受け内定していったが、私は子供のころ父に連れられて工事現場に行って遊んでいて建設業に親近感を持っていたので、建設会社を受験することにした。しかし、どうしても建設業でなければいけないという程ではなかった。落ちるはずが無いと思って受けたスーパーゼネコン2社はいずれも重役面接で落ちたが、大学の先輩の誘いで関西の中堅ゼネコンのA社に内定し1970年に社会人になった。ところが入社後3年目に父から、A社を辞めて朝日建設に入るようにと言われた。A社に入社した直後から、周りの社員に「林君はいつ辞めるんだ」と聞かれ、また、経営者の任務の重要性も分かるにつれて、いずれは朝日建設に入らなければいけないと思っていたが、3年間の勤務ではA社にお返しが出来ていないと思った。そこでもう2年間勤めて1975年4月に朝日建設に入社した。
  悠介は朝日建設の3代目社長である私の長男なので、世間の一般的な考え方からすれば4代目社長を期待されるところであろう。しかし私は、長男の優しい性格は建設業には向かないと思っていた。そこで彼が志望の美大に入ってから「朝日建設を継がなくても良い」と告げた。
  日本の建設産業は20世紀の終わり頃から厳しい経営環境に直面するようになったが、当社もとやま国体の2000年をピークに売上は右肩下がりで急落し利益も減少し、ついに2005年12月決算では1953年以来52年ぶりの赤字となった。翌年の1月、母が亡くなった後しばらくして私は悠介に言った。「朝日建設はこれまでのように公共事業依存ではいけない。ユニバーサルデザイン室を作って、建築や街づくりにも取り組もうと思っているが、悠介が大学で学んだ環境デザインが生かせると思う。朝日建設に入らないか」と。悠介は、「父さんは、朝日建設に入らなくても良いと言っていたのに」と驚いた。そして、インターネットで東京に写真現像所のアルバイトを見つけ、3月に東京に行ってしまった。
  それから3年たった昨年の春頃に、亡くなった母が生前よく出かけて結構高価な民芸の皿や花瓶などを買っていた“きくち民芸店”のご主人から、「この7月末で店を閉めるが、この店の跡を悠介さんがやってみないか」と言われた。悠介は、最初に勤めた老舗の写真現像所が、現像依頼がどんどん減ってきて次々に店を閉鎖しついには廃業したので、2008年の夏からは富士フィルム系列の現像会社に契約社員として勤めた。しかし昨年の4月に契約を更新せずにその会社を辞め、知人に頼まれて7月から新潟県十日町市で“大地の芸術祭アートトリエンナーレ越後妻有(つまり)2009”の手伝い(アルバイト)をしていた。悠介は美術好きだった母の血を最も濃く受け継いでいて、東京では日本民藝館に何度も訪れていたので、民芸品店の商売は彼に合っているかとは思った。しかし、“きくち民芸店”の店仕舞いの理由が、ご主人の年齢だけではなく、人通りが少なくなり、民芸愛好家も少なくなったことにあるので、果して商売としてやっていけるのかという不安を、私も妻も本人も抱いた。でも、悠介は店をやることにした。若い人たちに、民芸という枠にとらわれずに良いものを知ってもらいたいと言う。
  悠介は昨年11月に、“きくち民芸店”のご主人と一緒に島根、鳥取、広島、岡山、滋賀県に仕入れに出かけた。また12月には、一人で栃木県の益子町や東京に買い付けに出かけた。その間、ブロンズ作品のトラの原型作りに何日も徹夜していた。年が明けたら、何度もスケッチを描きなおしながら店の看板を作っていた。
  「好きなことを仕事に出来れば良いが難しい。特にスポーツや芸術では難しい。だから、自分がついた仕事を好きになることである」と聞いたことがある。私はまさしく後者であるが、息子は前者を選んだ。「その志や良し」である。
  開店してまだ1ヶ月あまり。お客さんがゼロという日は未だ無いが、売上ゼロの日は何日かあったようだ。今のところは、私の知人に多く訪れて頂き息子も感謝しているが、採算は厳しい。しかし、起業を決断した時の想いを忘れずに、夢の実現に向かって希望を持って進んで欲しいと願っている。

 

暖炉と薪ストーブ

2010.01.01

北代の老人介護事業所「あさひホーム」のデイサービスフロアには、中央に暖炉が設置されていますが、これは、ホームの設計をしてもらった東京の設計事務所デサインショップ・アーキテクツ社長の染谷正弘さんの提案によるものです。染谷さんは、家族のように暮らす家、それが「あさひホーム」であり、その中心に火はかかせないと考えました。そこで、染谷さんが懇意にしている鉄の造形家・松岡信夫氏に、暖炉を造っていただきました。
 しかし「あさひホーム」が開業した平成15年の冬、暖炉は使われませんでした。初めて介護スタッフが薪に火をつけたところ、煙突から風が逆流してきてフロアに煙が充満してしまいました。私も試みましたがうまくいかず、厨房で働く給食会社の職員さんから、煙くて目が痛くなるとか、厨房に灰が入ってくるとかのクレームもあって、結局、最初の冬、暖炉は使われなかったのです。
でも、わざわざ鉄の造形家・松岡信夫氏に依頼して造ってもらった素敵な暖炉がインテリアとしてしか機能しないのは許せないと、平成17年に入っての2年目の冬に火のつけ方を変えてみました。まず炭に火をつけて、その炭火で薪を燃やしたらどうかと考えたのです。母が昭和48年のオイルショックの時に大量に買い込み自宅の倉庫にしまっていた炭俵をホームに運んで暖炉の横に置き、炭俵から取り出した炭を火起こし器(片手鍋の底に穴を開けたようなもの)に入れ、デイサービスフロアから一番離れたグループホームのキッチンのガスコンロにかけて火をつけます。炭が真っ赤になったところで火起こし器を十能(ジュウノウ:炭や灰を運ぶ小型のスコップ)に載せて、グループホームとショートステイの長い廊下をゆっくりデイサービスフロアの暖炉まで運びます。それから、燃え盛っている炭を暖炉に入れ、その上に薪をくべ、煙突についている空気の流れる量を調節するダンパーを全開にすると、上手い具合に薪が燃えてくれました。この方法で暖炉に火を入れた最初の日に、デイサービスをご利用に来られたおばあちゃんが、玄関に入った途端に「ああ、懐かしい匂いがする」と言われ、暖炉の前の椅子に座って「芯から体が温まる」と喜ばれました。その日は灰の中にサツマイモを入れて、とても美味しい焼き芋を作りました。お餅も焼きました。

火起こし器
火起こし器に炭を入れてガスコンロで着火
十 能

その後は、炭をバーベキュー用の着火材に替えたり、更には小型のバーナーを買って、直接小さな薪を燃やしたりと火のつけ方をいろいろ試しています。しかし、昨年までは、始業時刻の前に介護スタッフに火を起こしてもらうのは負担を掛けることになると思い、火を起こすのは私が朝ホームに寄ったときだけに限られ、暖炉が活用されているとは言いがたい状況でした。今年になって、デイサービスの男性スタッフに火の起こし方を伝授したところ、先週の木曜日の1月14日に昼食をとりに出かけたら、暖炉に火が入っていました。暖炉前のテーブルで食べ始めたところ、「社長さん、この場所が一番いいわ。暖炉で体が温まって」、「薪の火を見ると心が和みます」、「昔はご飯を炊くのもお風呂を沸かすのも薪でしたね」と同じテーブルのおばあちゃん達から言われました。そこでひらめいたのが、「あさひホーム吉作」に薪ストーブを設置することでした。前日は「あさひホーム吉作」で昼食をとったのですが、床暖房設備の無い1階のデイサービスフロアにおられたKさんが「足元が寒いわ」とおっしゃっていたのを思い出したからです。向野介護部長からも、1階が寒いと言って帰りたがるおじいさんが、床暖房のある2階グループホームフロアのリビングルームに行くと、帰ると言われなくなるという話を聞いていました。平屋造りの「あさひホーム」の全館床暖房がご利用者さんに大変喜ばれ、北陸の介護施設に床暖房は必需設備だと確信していたので、2階建ての産婦人科クリニックを平成18年に「あさひホーム吉作」に改修する際にも、1、2階とも床暖房にするつもりでした。しかし、苦しい台所事情から、居室がある2階だけしか床暖房に出来なかったのです。 吉作に暖炉ではなく薪ストーブをと思ったもうひとつの理由は、昨年末に出かけた岩瀬でのピアノコンサートで、私の隣で聴いていた富山市四方の薪ストーブ屋さんを思い出したからです。北代での昼食を終え本社に戻り、コンサートを開いた天下堂洋品店の主人に電話し、彼の知人であるストーブ屋の鍋島さんから私に連絡してくれるよう依頼しました。早速、翌々日の土曜日に鍋島さんに吉作に来てもらって薪ストーブを置く場所をアドバイスしてもらい、翌日の日曜日には向野介護部長と一緒に鍋島さんが月岡に所有する家に出かけ、設置してある沢山の薪ストーブを見学しました。薪ストーブから出る遠赤外線が効率よく家の躯体や人間の体を温めるので、窓を開けて外の冷気に当たっても窓を締めると体が温かくなったままなのを実感しました。そして、鍋を掛けて煮物も出来るノルウェー製の薪ストーブに決めました。お金はかかりますが、吉作のデイサービスをご利用になるお年寄りが、薪の炎を見たりおでん鍋の匂いをかいだりしながら、遠赤外線の柔らかな暖房で、心地よい幸せな時間を過ごされる日が待ち望まれます。

鍋島宅
薪ストーブ
薪ストーブ

床暖房にしなかったことが薪ストーブの導入になったのですから、「災いを転じて福となす」になったのかと思います。

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