4月1日の入社式は、朝日建設?と?朝日ケアの合同入社式として行った。当初は、朝日建設の入社式が終ってから朝日ケアの入社式を引き続き行なう予定であったが、両社共に新卒の社員が入ること、それも同じ20歳の女性ということで、3月末になって急遽合同で行なうことに変更した。入社式の後に行なう私が担当する新入社員教育も、従来は朝日建設だけであったが、今年は両社の経営理念を取り込んだパワーポイントを作り、合同で行なった。
入社式での挨拶の中で、私は「朝日建設の仕事の柱である土木工事は、英語ではCivil Engineering といい、これは土木工学も意味するが、直訳すれば「市民の工事」、「市民の工学」であり、「市民が生活する基盤を作る工事、工学」という意味である。人間が生活し、経済活動を行い、また安全に安心に、そして文化的に衛生的に暮らすためには、当社がメインとして造る道路を始め河川の護岸や上下水道、また、ダムやトンネルなど生活基盤としての土木構造物があって初めて成り立つのである。
一方、朝日ケアが行なう老人介護事業は、土木構造物の生活基盤の上で生まれ育ち、仕事をしたり家庭を築くなどしてきたお年寄りに、人生の最終章の時間を出来るだけ楽しく過ごしていただけるようお世話する仕事である。
この意味で、朝日建設グループは、人間のスタートとラストに関わる大変重要な仕事をしているのであり、このことに使命感と誇りを持って仕事をして欲しい。」と話した。
さて、最近読んで納得・共感できた本に「<就活>廃止論」(佐藤孝治著、PHP出版)がある。この本の内容については、先月の業務推進会議や今月の朝礼で話したが、印象に残った文章は、『就職活動には<ステップ0> がある。いわゆる就職活動のイロハとされる自己分析とか、エントリーシートの作成とかいった具体的な活動を<ステップ1>とすれば、それを始める以前の「経験と学びによって人間としての力を高める」という段階が<ステップ0>である。』、『大学生の「社会化」が足りない。』、『学生が就職活動に苦戦している理由は、新卒学生に対する求人が少ないからではない。企業が採りたいと思う学生が少ないからである』、『企業がぜひ採りたいと思える「いい人材」の出現率は5%程度だ。』、『学生の中には、就職活動にぶち当たって戸惑うところまでは同じでも、ちょっと磨けば”準備完了”となる人と、抜本的な対策が必要な人がいる。それまでの二十数年間の人生で<ステップ0>をどのように歩んできたかによって、この差は非常に大きなものになっている。その差には、大学の偏差値とか、学校の成績とかいった基準はあまり関係がない。その差とは、「コミュニケーション能力」、「ものごとに対する主体性(自分の頭で考えられるか)」、「これが自分の強みと明言できる能力」、「自分なりに、これだけは一生懸命頑張ったと言える経験」』などである。
当社がこれまでに採用してきた社員で、数年の内に、中には1年以内に辞めていった新卒社員を思い出せば、『学生が就職活動に苦戦している理由は、新卒学生に対する求人が少ないからではない。企業が採りたいと思う学生が少ないからである』が合点できた。彼らは、“5%”の「いい人材」からはるかに離れた、最初から採用してはいけない学生、生徒、あるいは「採りたい」と勘違いさせられた学生、生徒だったと言える。
しかし『企業がぜひ採りたいと思える「いい人材」の出現率は5%程度だ。』と言われても、大半の企業がそれ以外の学生を採用し、また中途採用しているのが現実だ。そして、『学生の中には、就職活動にぶち当たって戸惑うところまでは同じでも、ちょっと磨けば”準備完了”となる人と、抜本的な対策が必要な人がいる。』中の、『抜本的な対策が必要な人』に属する人を新卒採用し、抜本的な対策がなされないままに社会に出た人を中途採用している企業がこれまた多いと思われる。
となれば仕方が無い。入社後に、「コミュニケーション能力」をつけさせ、「ものごとに対する主体性」を持たせ、「これが自分の強みと明言できる能力」を開発させ、「自分なりに、これだけは一生懸命頑張ったと言える経験」を積ませることだ。
そこで改めて当社の経営理念の「人は経費ではなく資源」の重要性を思う。「玉(たま)磨かざれば光なし」という諺があるが、新入社員に限らず玉の資質を持った社員は、磨いて有用な資源にしなければいけないのである。そうしなければ、もうひとつの当社の経営理念である「建設工事を通して、お客様や地域の役に立つこと」や「お年寄りに満足してもらうこと」は絶対に出来ないし、入社式で新入社員に話した使命感と誇りを持って仕事をすることもできない。
ひとり社長の私だけが社員教育するのではない。部下を持つ社員の全てが部下の教育の重要性を認識し部下の育成に努めること無しに、今年の10月に創業70周年を迎える朝日建設にも、来月設立8周年を迎える朝日ケアにも、明るい将来は無いと断言できる。
話を聞いた途端に、NHKの『みんなのうた』で歌われていた「コンピューターおばあちゃん」を思い出させられた女性たちに出会った。
1981年に初めて放送され、その後もたびたび放送されたこの歌は、「明治生まれという高齢でありながら、かくしゃくとして博学、さらに英語にも堪能な自慢のおばあちゃん(コンピューターみたいになんでもできる祖母)への、孫の敬愛といたわりを歌い上げた佳曲であり、発表時の時代的な通念を織り込んだ歌詞でありながら、世代をこえて愛されている。「コンピューター」は当時、最先端技術であり、それは万能を意味していた:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」歌であるが、この説明を読んで歌詞やメロディーが懐かしく思い出された読者もいることだろう。
「コンピューターおばあちゃん」たちに会ったのは、3月23、24の両日、私が富山支部世話人代表として参加した、東京での「新老人の会」拡大世話人会であった。
「新老人の会」は、1911年(明治44年)生まれで現在も聖路加国際病院理事長をされている日野原重明(ひのはらしげあき)先生が、新しい老人の生き方を追及するために、1、自立と良き生活習慣や我が国の良き文化の継承 2、戦争体験を活かし世界平和の実現 3、自分の健康情報を研究に活用 4、会員がお互いの間に新しい友を求め、会員の全国的な交流を図る 5、自然への感謝と良き生き方の普及の5つの目標を掲げて2000年9月に結成された会であり、現在、東京に本部と全国に33の支部がある。
私は2007年に富山支部が設立された時にジュニア会員(60歳〜74歳)として入会し、頼まれて昨年4月に世話人代表を引き継ぎ、今回初めて拡大世話人会に参加して初日の23日に支部の活動状況を報告した。報告は事前に本部に提出した資料に基づいて行うのだが、報告書はなるべくワープロで作成し、メールに添付して送るように本部から要請されていた。しかし、2支部はFAX送信であり、やや見づらかった。
私の発表の後が鹿児島支部のおばあさんで、開口一番「私は現在83歳だが、本部からメールで報告するように要請されたので、3年前からパソコンを始めました」と話されたのにビックリ仰天した。資料には、会員を会員別(シニア、ジュニア、サポート)、男女別に分けた人数や平均年齢が記入された表が記載されていたが、合計人数や平均年齢はエクセルで表計算したものを貼り付けたのだと思う。
夕食懇談会で隣の席に座った方はとても若々しい女性で70歳代だろうと思っていたら82歳とのこと。支部では会報を担当し、会の活動に必要なので今でも車を運転していると言われた。現役で塾を経営していると言われるので教科を聞いたら数学。小中学生に教えているが、塾をやめるのは自分が生徒達より解くのが遅くなった時と言われて、これまたビックリ仰天だった。
翌日のワークショップでは、86歳のおばあちゃんと一緒のテーブルだった。この方は何と35年前からコンピューターに触っているとのこと。息子さんの一人がIBMに勤めていて、他の2人の息子さんと一緒にコンピューターを手取り足取りで教えてくれたと話される。頂いた手づくりの名刺には小さな花を可愛らしく片隅にカラーで刷り込んであり、Eメールアドレスとホームページアドレスも入っていた。
とにかく、会議、夕食懇談会、ワークショップで会う人すべてが、今年10月に99歳になられる日野原先生を筆頭に、元気なおじいさん、おばあさん(と言うより、おじさん、おばさん)ばかりであった。
一方、朝日ケアが運営する老人介護事業所「あさひホーム」でお会いするお年よりは、体が不自由であったり認知症が出たりしている方々ばかりであり、中には「新老人の会」で活動している人より若い方もいらっしゃる。しかし、一人の人間としての尊厳を有する高齢者であることは同じだ。
私は今63歳。10年後、20年後、さらに30年後、東京の拡大世話人会でお会いした「コンピューターおばあちゃん」たちのように元気一杯で毎日を過ごしているのか、それとも「あさひホーム」を利用されるお年寄りのように介護されるようになっているのか、それは分からないが、どちらにしろ、生きている意味のある日々を過ごしたいと思う。
私は、アイバックの小沢社長が主催する勉強会に20年以上参加しているが、小沢さんは昭和47年に渡米し、ハーバード大学を修了してから米国企業で働き、昭和58年に帰国して昭和61年にアイバックを設立された。その小沢さんの英語力にはいつも感心させられている。その小沢さんも私もロータリアン(ロータリークラブ会員)であるが、以前の勉強会で、ロータリーの「四つのテスト」について、3箇所で日本語訳が間違っていると話された。
そのひとつが、このテストの2番目の「みんなに公平か? Is it FAIR to all concerned?」で、公正FAIRと平等EQUALは違うのであり、FAIRは「公平」ではなく「公正」と訳すべきだと言うのである。それを聞いて私なりに、なるほど英語の「フェアプレー」は、訳すなら「公平プレー」ではなく「公正プレー」であり、正々堂々と戦うことだと合点した。そして、このコラムを書くに当たって、田中毅パストガバナー(2680地区の元ガバナー)が、ご自分のウエブサイト「ロータリーの源流」の中の「炉辺談話」(284)に書いておられる「「四つのテストの解釈」を見つけた。そこには「FAIRとall concernedという言葉の翻訳には問題があります。Fairは公平ではなく公正と訳すべきでしょう。公平とは平等分配を意味するので、例え贈収賄で得たunfairなお金でも平等に分ければ、それで良いことになります。(後略)」と書かれていた。
そこで、念のために私の電子辞書の国語辞書「大辞林」で公正と公平を調べると
【公正】かたよりなく平等であること。公平で正しいこと
【公平】かたよることなく、すべてを同等に扱うこと。主観を交えないこと
とあった。これならば、公正でも公平でもさして変わりが無いのではないかという意見もあるかと思うが、私は小沢さんや田中パストガバナーが言われるように、ここは公正であるべきだと思った。というのも、平等というニュアンスで公平が使われることが多いと感じているからだ。この考え方で世の中の規則や政策を見ると、公正ではなく平等に重きを置いた最たるものが、今国会で審議されて月内に成立する「子ども手当」だと思う。
この子ども手当は、15歳以下の子どもの保護者に毎月2万6千円を支給するというもので、対象者は1375万人とのこと。財源、経済効果、受給対象外など様々な問題が指摘されているが、私が一番問題だと思うのは、実施する時の問題ではなく、子育て支援と称して、対象者の保護者に一律にお金を支給するという発想そのものである。子どもを餓死させる鬼の様な親に支給されたお金は、どう考えても子育てには使われないであろう。この不況で収入の減った家庭では生活費の補填に回るだろう。自民党政権時代に全国民に対して「定額給付金」という愚かな政策が実施されたが、これを思い出す。人気取りのために、「公平」という名の下に15歳以下の子どもの保護者に「平等」に「一律」にお金をばら撒いているだけである。
同様に、公立高校授業料無料化もおかしな話だ。高校教育は義務教育ではない。どんな習い事でも、習うにはお金がかかるものだ。それをただにするとは何事か。我が子に高校教育を受けさせたい、やりたがっている習い事をさせたいと頑張って働いて授業料や月謝を工面する親の姿を見て、子どもは感じるものがあり努力するのだ。前述の子ども手当と同様に、親も子どももなまくら者にする政策と思えてならない。
また、米農家に対する戸別所得補償政策も、訳が分からない。単純に考えても、米が余っているのになぜ米農家だけに所得補償をしなければいけないのか。生産費と農家販売価格の差を補填するというが、ここにも一律の考え方がうかがえる。これでは、頑張って生産費を下げようという意欲が起こるはずがないと思う。これも、農家をダメにする政策ではないか
「公平に⇒平等に⇒一律に」という発想はおかしい。個人でも、家庭でも、企業でも、地域でも、それぞれ別々の個性があり生き方、考え方があるのだから。
先日、朝のラジオで、「電機や自動車など大手製造業の春闘一斉回答が17日にあり、定期昇給が確保された」というニュースに対して、この番組に常連のジャーナリストが、「定期昇給は働くものにとって自分の給料が将来どうなるか分かる仕組みであり、経営者が定昇をしないのはとんでもないことだ」というようなコメントをしていたが、これはおかしいと思った。当社は平成18年4月に賃金体系を改正し、全社員に対して「これまでに経験したことの無い厳しい経営環境にある建設業界であるが、当社が建設業者として今後とも生き抜き勝ち抜くためには、年功序列賃金を廃して、有能な人材を幹部に起用することが喫緊の課題である。そこで、従来の賃金体系を改正し、同一労働、同一賃金を基本に据えて、労働の質(能力)と量(成果)に基づく実力に対応した賃金を支給するものである。」と説明した。ここには定期昇給の発想は全く無い。定期昇給とは毎年一定の時期に社員の基本給を上げることであり、1歳年をとったら1年先輩の給料と同額をもらうということである。これはまさに「一律」、「平等」の思想であり、社員一人ひとりの実力は違うのだから、定期昇給はありえないのである。当社では、実力に対する格付けに基づく本給・格付け手当の表が公表されており、自分の将来設計をするには、現在の自分の格付けをどうすれば上げられるのか、そのためにはどのようなスキルを身につけ、どのような態度で仕事に臨むべきかと考えることしかないのである。これが「公正」な賃金体系であると確信している。
私は、これからは常に「みんなに公正か?」と自問自答しながら経営していこうと覚悟を決めている。