福島の子どもたち

2012.08.01

6月号のコラム「桐谷農園 その2」で、NPO法人アイ・フィール・ファインの長谷川由美理事長から「8月に福島の子どもたちが、当社の保養所のアサヒ・ツイン・ドームズを使えないか」というフェイスブックのメールがあったので、6月10日(日)の桐谷の田植えに参加して、福島の子どもを受け入れるプロジェクトのコーディネーター本間さんにお会いした、と書いた。そして、「昨年の東日本大震災に対して当社がした支援は、すぐに義援金を贈ったことと、原発事故で福島県の楢葉町の住民が避難しているホテルに泊まった会津若松への社員旅行くらいである。他にできることは無いかと思っていたので、原発事故のために福島の小中学校などで屋外活動を制限されたというニュースや、未だに避難解除されていない村があることなどを思い、ドームで子どもたちを受け入れすることはささやかな支援になるだろうと思った。」と続けた。
 6月15日には本間さんが来社され、本間さんの想いをお聞きし、その後、本間さんから「夏休み in (富山県八尾町)桐谷」と題する募集要綱のタタキ台がメールで送られてきて、それに私が修正意見を返信し、何度かやり取りしながら募集要綱が固まった。料金は、当社の規定では一人1泊2500円なのだが、今回は一家族1泊500円と特別料金に設定した。また、本間さんが、福島の原発事故で避難している家族200人以上を昨年から受け入れてお世話をしている小矢部市の川嶋さんという方(その後、「富山SAVEふくしまチルドレン」事務局長と判明)と知り合ったこと、そしてその人のアドバイスで、東京電力福島第一原発の1〜4号機が立地する大熊町に住んでいた家族の受入を進めるとのメールも届いた。
7月にはいると、8月3日から6日までの大熊町から乳幼児や低年齢児を含めた子どもたちとその保護者19人の滞在スケジュールやボランティアの役割分担などを書いた予定表がメール添付で送られてきた。さらに、この事業の主催が本間さんを代表者としての「富山桐谷わくわくプログラム」、そして後援が川嶋事務局長の「富山SAVEふくしまチルドレン」と、川渕英子さんが代表を務める「東北エイド」と組織も固まった。
川渕さんは以前から存じ上げているが、1996年発足のNGO「アジア子どもの夢」代表であり、東日本大震災の発生後すぐに支援プロジェクト「東北エイド」を立ち上げ、震災直後から被災地に毎週のようにバスに支援物資を積んででかけ、これまでにその数21回。7月29日には、復興支援チャリティーフェスティバル「東北AID2」を小杉で行い、私も協賛しフェスティバルも見に行った。
そして、いよいよ8月3日夕方、大熊町の一行が桐谷にやってきた。私は4日(土)に、途中で池多のスイカを2個買ってドームに出かけた。子どもたちは、富山新港での海王丸の見学や太閤山ランドでのプール遊びに出かけていてまだ戻っていなかったが、すでに10人近くの人たちが来ている。聞くと、JAIFA(生命保険ファイナンシャルアドバイザー協会)富山県協会のメンバーで、これからの夕食のバーベキューのためにボランティアで来ているとのこと。ドーム内の台所では、長谷川さんがおにぎりを握っている。各部屋の入り口には宿泊者の名前が張り出してあったが、本部として川嶋さん他2人の男性、ボランティアとして川渕さん他2人の女性の名前もあった。長谷川さんから、川渕さんたちは昨夜ドームに泊まり、今日はこのプログラムとは別に福島県から来ているサッカーチームの子どもたちと立山で泊まると聞く。川渕さんのタフさに驚き、かつ尊敬の念を抱く。しばらくしてバスが到着。続々と子どもたちが降りてくる。食事の開始前に自己紹介があり、川嶋さんに指名されて、最初に私が、このドームのオーナーとして、こうしてドームが活用されて嬉しいと挨拶。山田村と八尾町の有志の会「YYネットふるさと創造会議」の方は、山田村から今朝採りたてのキュウリやピーマン、トマトを持ってきましたと自己紹介。子どもたちは、お腹がふくれたらテニスコートでボール遊び。その次は、ドームのデッキでシャボン玉飛ばし。暗闇の中を流れて行くシャボン玉はなかなか幻想的だった。
お盆休み中の8月13日も、いわき市からの1家族4人を囲む夕食会に出かける。美味しい焼き豚を差し入れするとフェイスブックに書いたら、長谷川さんは、私は鱒寿司と蒲鉾と反応。早めについたら、ドームには階段の下で枝豆を茎からむしっている女性が一人だけ。私も横に座ってお手伝い。「フードバンクとやま」(飽食の時代に「食べ物を大切にする」気持ちを実行に移すボランティア団体)の方で、今回のプロジェクトに枝豆を寄贈してもらったのだという。とても美味しい枝豆であった。
今回「富山桐谷わくわくプログラム」にチョットだけ関わったが、多くのボランティアの善意が結集して初めて実現できた事業だとつくづく思った。福島からの送迎に提供されたマイクロバス、デッキの下に置かれた2台の洗濯機、差し入れされた50キロの米や100食分のパン、作りたての豆腐や40個の笹モチなど、それぞれに心打たれ、その後ろに必ず存在する人間の善意を思った。
 放射線量についても多くを学んだ。3.11を風化させないために何が出来るのか、自問し続けたい。

グスコーブドリの伝記

2012.07.01

先日、何気なく新聞の映画案内欄を見ていたら、TOHOシネマズファボーレ富山の上映映画の中から「グスコーブドリの伝記」の文字が目に飛び込んできた。私がもっとも尊敬する人物、宮澤賢治の童話で、かつ、私の好きな賢治の作品のひとつではないか。その後新聞で、「グスコーブドリの伝記」の杉井ギサブロー監督と、「おおかみこどもの雨と雪」の上市町出身の細田守監督との対談記事を読み、今回のコラムの題材にしようと、3連休最後の7月16日にファボーレに出かけた。
久しぶりの映画鑑賞で、それも宮澤賢治の作品とあって、始まるとまず映し出された上空から見た森の風景にこの後の展開を期待した。しかし、次の場面に現れたグスコーブドリや妹のネリ、そして両親はネコではないか。童話の「グスコーブドリの伝記」に登場するのは、ネコではなく人間であったはず。これでいささかガックリきたが、その後の展開も、次々に現れるのはネコであり、夢の場面に出てくるのは奇妙にゆがんだ顔のお化けのような人間(?)で、アニメの絵もコントラストが強くどぎつく感じ、私が賢治の作品を読むたびに感じる世界、風景ではなかった。
 また、ストーリーも、こんな話だったかなと思わせられた。もっとも初めてこの童話を読んだのは恐らく私が大学生の時だったから40数年も前のことであり、その後は賢治のほかの作品、例えば「風の又三郎」、「よだかの星」、「注文の多い料理店」、「鹿踊りのはじまり」、「なめとこ山の熊」などのように何度か読み返していた作品ではなかった。この作品が私の心に強く残っているのは、イーハトーヴの人々を冷害から救うために火山を爆発させ、どうしても逃げられない最後の一人として死んでいったグスコーブドリに感動したためであり、その他の部分はほとんど覚えていないというのが実際である。映画を観終えて、これはもう一度原作を読んで、ストーリーを確かめなければいけないと思った。
 帰宅して、「グスコーブドリの伝記」が入っている文庫本があったはずだと探したが見つからない。そこで、買い込んだものの一度も読まないままにほこりがかぶっていた筑摩書房発行の「校本 宮澤賢治全集」全13巻から、「グスコーブドリの伝記」が収められた第10巻(写真あり)を探し出し、クーラーをかけた寝室で読み出した。初版本の発行は昭和49年で、昭和51年に初版2刷を買ったようだ。
ときどき昼寝しながら、映画と重ね合わせて夕方までに読み終えたが、原作にはない場面がずいぶん映画にはあり、特に夢の場面は、原作を読んで私の心に浮かぶような情景では全くなかった。
 実は、この原稿を書き出してから、第10巻の後半の部分の校異(こうい・主に古典などについて、同一作品の写しが二種以上ある場合に、それらの文章の文字や語句の異同を比較すること)を読み、この第10巻に収められていたのは「グスコンブドリの伝記」であり、私が読んだであろう「グスコーブドリの伝記」は第11巻に収められていることを知った。「グスコンブドリの伝記」に手を加えられて、昭和7年3月発表の「児童文学」第2冊に「グスコーブドリの伝記」として掲載されたとのことだ。そこで第11巻を引っ張り出して、この原稿を書きながら「グスコーブドリの伝記」を斜め読みしているが、「グスコンブドリの伝記」より簡素化され短くなっているようだ。以下に抜粋している会話は、「グスコンブドリの伝記」に書かれているが、「グスコーブドリの伝記」には見つからなかったことをお断りしておく。
久しぶりに読んで、私の心に響いた場面は、ブドリとフウフィーボー(クーボー)大博士との会話。
(ブドリ)「仕事を見附けに来たんです」(大博士)「どんな仕事がすきか。」(ブドリ)「どんな仕事でもいゝんです。とにかくほんたうに役に立つ仕事なら命も何もいりませんから働きたいんです。」
 そして、イーハトーヴ火山局のペンネン技師の言葉とブドリ。
「・・・・そこでこれからの仕事はあなたは直感で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのためにはたらくものなのです。」ブドリは喜んではね上がりました。
さらに、夏の寒さを防ぐためのたったひとつの道、カルボナード火山島を爆発させることについてのクーボー大博士とブドリとの会話
(大博士)「あれが爆発するときはもう遁げるひまも何もないのだ。」ブドリが云いました。「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あお青空のごみになるのです。」
 東日本大震災で、大きな被害をこうむった賢治の生まれ故郷の岩手県(イーハトーヴ)を、福島第一原発事故で人が住めなくなってしまい荒れ果てた地区がある福島県を、賢治は天上からどう思ってみているだろうかと考えた。そして、自分のこれからの生き方を考えた。
『世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない』
(宮澤賢治:農民芸術概論綱要)

校本 宮澤賢治全集」第10巻
校本 宮澤賢治全集」第10巻

桐谷農園その2

2012.06.01

 2005年7月号のコラムは「桐谷農園」だった。NPO法人アイ・フィール・ファインの会員達が、2005年から桐谷の村のみなさんの協力のもと、手作り・無農薬・天日干しの稲作に挑戦していて、ホームページ桐谷農園(富山市八尾町・桐谷集落 「有機農業の里づくり」モデルプロジェクト)には、以下のように記されている。

桐谷農園

 アイ・フィール・ファインは、「高齢者が健康で自立した生活を送れる環境と仕組みを提供すること」を目標に、2004年10月に富山市の有志で立ち上げたNPO法人です。
 「終(つい)の住処」を考える中で、「自然」と「様々な世代が支え合い協力し合って暮らす」その二つがとても重要なテーマとして浮上してきました。
 そこで、自然溢れる里山・桐谷に農地を借りて体験農園を始めました。
 NPO法人 アイ・フィール・ファインが活動の一環として取り組んでいるのが、越中八尾スロータウン特区を活用して、八尾町桐谷地内での無農薬有機栽培による米作りです。
手植えによる田植えから、人力での除草、手刈りによる稲刈り、はさ掛けによる自然乾燥など昔ながらの農法で、無農薬有機栽培を実践しています。また、米作り以外でも、野菜やそばを栽培しています。

草刈
田植え

米ぬかペレット散布 8年目の今年の田植えは総勢30名で9時から3時間行われたが、高岡にあるパーソナルトレーニングジムの若者たち(4月に桐谷部落の江浚いや苗圃場作りに加勢してくれている)の参加もあり、2005年の田植えよりずいぶん活気があふれていた。田植えが終わってからは食事会。ドームのデッキ下で、(株)シムコが桐谷の近くの小井波にある八尾育種改良センターで生産する旨い豚肉と、どこから手に入れたものかイノシシの肉でのバーベキューを堪能。昨年収穫したもち米を使ってのわさびもちと大根おろしもちも美味しかった。ミツバチの巣箱から蜂蜜を搾る実演も行われ、出来立ての蜂蜜に舌鼓を打った。研修棟では手打ち蕎麦が振舞われ、参加者一同「美味しい!!」の連発だった。

米ぬかペレット散布


 食事が終わりH理事長から、福島の子どもたちを富山に呼んでドームで過させたいと計画している人として紹介されたのが、蜂蜜を搾ってくれた本間さんであった。9年前に脱サラして蜂蜜の販売を始めたが、お客さんに安全な蜂蜜を提供するには、自分でミツバチを育てるところからやらないといけないと思って実践している人だ。昨年の東日本大震災に対して当社がした支援は、すぐに義援金を贈ったことと、原発事故で福島県の楢葉町の住民が避難しているホテルに泊まった会津若松への社員旅行くらいである。他にできることは無いかと思っていたので、原発事故のために福島の小中学校などで屋外活動を制限されたというニュースや、未だに避難解除されていない村があることなどを思い、ドームで子どもたちを受け入れすることはささやかな支援になるだろうと思った。またパーソナルトレーニングジムのアスリートも、八尾で生活基盤を作りたいがなかなか仕事が見つからない、相談に乗って欲しいとfacebookで私にメールしてきた。
新たな課題にチャレンジすることにもなった桐谷での8年ぶりの田植えであった。

ドーム下でのバーベキュー
桐谷農園の看板
蜂蜜を搾ってくれた本間さん
蜂蜜搾り
蜂蜜搾り