初孫誕生

2017.02.02

先月のコラムの書き出しは、『今月の2日に満70歳になりました。今年の年賀状には、「1月2日に70歳!!なんだか嬉しい気分です」と書き添えました。』で、締めくくりは、『もうひとつ、理由がありました。70歳になった今月、初孫が誕生します。「なんだか嬉しい気分」のおおもとは、これかもしれません。』でした。

 「なんだか嬉しい気分」のおおもとは、やはり初孫の誕生のようでした。1月20日に、長女に女の子が生まれたのです。

 私と同い年の男友達には、ほとんど孫がいます。中には、上が高校生という人もいます。以前、高校の同期生でどちらかといえば硬派の友人が、「みんな孫は可愛いと言うが、俺はそうなるとは思っていなかった。しかし生まれてみたら、可愛いぞ」と、相好を崩して携帯電話の待ち受け画面に入れた赤ちゃんの写真を見せてくれました。

 私は、生まれた翌日の朝、出勤前に病院に立ち寄り赤ちゃんと対面しましたが、濡れたままの髪の毛が頭にぺったりとはりついていて、悪いと思いながらも、お猿の赤ちゃんのように見えないこともありませんでした。そして、赤ちゃんはこんなに小さいものだったかという印象が強く、予想していたほどの感動や可愛いという思いは起こりませんでした。名前も決まっていないので、赤ちゃんのベッドのネームプレートには「F.A.ベビー様」と書かれていて、名前で呼べないところに、孫の実感も沸かなかったような気もします。

 でも、娘が退院して我が家で過ごすようになり、新米の母親として寝不足で悪戦苦闘している姿や、妻が入浴やだっこなどいろいろと助けている様子に、孫が出来たんだという思いが少しずつ強くなってきました。そして、娘が夫のTさんと二人で苦心しながら、出生届けの提出期限ぎりぎりに「Y」という名前を決めたので、少しずつ人間らしく、そして可愛らしくなっていく赤ちゃんにようやく「Yちゃん」と声をかけることができるようになり、今は完全に「じいちゃん」になっています。

 さて、世間では「孫は責任が無いからいい」と言いますが、Yが誕生して、私は責任を感じています。祖父母には親と違って子育てに対する直接的な責任が無いという意味で「孫は責任が無い」というのは理解できます。しかし、祖父母の世代としての責任を感じるのです。

 今も世界では、シリアや南スーダンなど世界各地で武力紛争が起きています。戦後71年間、世界ではいくつもの戦争が繰り広げられてきた中で、戦争に巻き込まれなかった日本国民は幸せです。しかし、日本一国だけがこれからも戦争と無関係で、そして無関心でいることはできないと思うのです。世界平和、人類の平和の実現のために、日本は積極的に世界各国に働きかけることが必要だと思うのです。そのためには、まず日本が国家として、政治的にも経済的にも社会的にも安定していることが前提だと思います。そして国家の安定は、地域社会の安定の上に成り立つものだと思います。

 Yが二十歳になるとき、私は90歳になっていますが、Yや次に生まれてくる孫たちが未来に希望を持って生きていける富山を作り日本を作るために、これからまだまだやることがあるという思い、やらなければいけないという責任を強く感じました。

 これも、じいさんになれたから思えたことです。孫よ、ありがとう!

70歳

2017.01.01

今月の2日に満70歳になりました。今年の年賀状には、「1月2日に70歳!!なんだか嬉しい気分です」と書き添えました。

 昨年満69歳の誕生日を迎えたときに、妻から「和夫さんも数えで70歳。古希だわね」と言われましたが、数え年ではピンときませんでした。でも今年の誕生日には「70歳になった。いよいよ古希か!」と思いました。しかし、古希は「人生七十古来稀なり」即ち、70年生きる人は古くから稀であるという唐の杜甫の詩に由来しているので、2015年の日本人男性の平均寿命が80.79歳ですから、古来稀な長生きをしたという気持ちで「嬉しい気分」になったのではもちろんありません。

 ではなぜ「嬉しい気分」を感じたのかと自問しました。それは、70歳から新しいことが始まる予感がして、わくわくしているからだろうと思い至りました。

還暦は、60年で干支が一回りして生まれ年の干支に戻ることから、赤ちゃんに還るという意味で赤いちゃんちゃんこや赤い頭巾を贈ると聞きましたが、私は70歳にして赤ちゃんに還り、またこれから新たな人生を歩み始めるという気持ちがするのです。

 これは、私が「新老人の会」やロータリークラブの活動の中で、80歳代、90歳代、そして「新老人の会」会長の日野原重明先生のように105歳でもかくしゃくとされている高齢者の方々と日常的に交わっていて、その方々のように健康で長生きしたいという気持ちが70歳の節目の年を迎えたことで強くなったということは多少あるでしょう。しかし、より大きな理由は、当社が昨年2016年にスタートさせた3年間の中期経営計画VISION1.2.3.(営業利益1億円、売上高20億円を平成30年度に達成する)にあると気づきました。3年間ごとの中期経営計画を8回繰り返すと、8回目は2037年度~2039年度となり、翌年2040年は当社の創業100周年の年になります。

 今年は、米国で1月20日にトランプ氏が大統領に就任し、英国ではEUとの離脱交渉が本格化するなど世界情勢が大きく変わりますが、日本においてはますます少子高齢化が進み、産業間の人材確保競争が激しくなって、外国人労働者を積極的に受け入れなければ経営が成り立たなくなるでしょう。こんな状況下で、経営者である私には、創業100周年に向かっての中期経営計画をシッカリ立て、それを確実に達成していくことが求められると思います。そこにこそ経営者の仕事があると考えます。そう考えると力がわき、「嬉しい気分」になるのです。

 もうひとつ、理由がありました。70歳になった今月、初孫が誕生します。「なんだか嬉しい気分」のおおもとは、これかもしれません。

VISION1.2.3(3カ年中期経営計画)のイメージ図

5回目のバヌアツ共和国訪問

2016.12.28

2013年11月のコラムのタイトルは「4回目のバヌアツ共和国訪問」でしたが、このコラムの終わりに「5回目があるかどうか分からないが、私の人生での貴重な体験となっている4回のバヌアツ訪問である。」と書いていました。

 しかし今年の春頃、過去4回ともバヌアツに一緒に出かけ、7月から富山みらいロータリークラブ会長を務めることになっていた西尾さんが、姉妹クラブであるケントホーストロータリークラブへ、来年6月に行う当クラブ創立20周年記念式典への参加を要請しに10月頃にオーストラリアを訪れ、その足でバヌアツ訪問を考えているとのうわさを耳にしました。そこで7月中旬に行われたロータリークラブのバーベキュー大会に参加したときに、一緒のテーブルに座った西尾さんに「本当ですか?」と尋ねたところ、「本当です。林さんも行きましょう」と誘われました。5度目のバヌアツは無いと自分なりに言い聞かせていたのでしたが、過去4回のバヌアツ訪問をすべて段取りし同行もしてくださり、今は転居したためにケントホーストクラブから転居先の町のクラブに所属変更されているネイビルさん(78歳)が、今回も新たな小学校訪問の手配に尽力し同行もしていただけると聞き、生ビールでよい気分になっていた私は、「ネイビルさんが行くのに私が行かないわけには行かないかな」と思い、「じゃあ、行こうか!」と言ってしまいました。

 11月19日(土)の夜、羽田空港を発ち、20日はシドニーでネイビルさん夫婦と息子さんと一緒に夕食会。翌21日の夜、ケントホーストクラブのクリスマス例会(写真1)でわが当クラブの20周年式典への参加を依頼しました。22日の早朝シドニー空港を発ちブリスベン空港経由で夕方バヌアツのサント空港に着きました。

 今回のバヌアツ行きは、西尾さんの「もの(物)からこと(事)へ」の方針で、これまでのパソコンやプロジェクター、衣服や文房具の寄贈、ソーラーパネルやバッテリーの設置など物の支援に加えて、2009年の2回目のバヌアツ訪問の時から支援を続けているサント島の端っこにあるホグハーバーの小学校の児童と富山市立堀川小学校6年生の児童との交流という「こと」の第一歩を踏み出すことでした。

 23日(水)の午前中にホグハーバー小学校(写真2)に到着し、集会室に集まった全校児童に、最初に英語で説明の入った富山県紹介ビデオを上映し、続いて堀川小学校の6年生男児の起床、朝食から通学、学校での授業や給食、そして帰宅し寝るまでの1日の様子を収録したビデオを西尾さんが英語で説明しながら上映しました。その後6年生だけ残り、英語で書いた5つの質問をスライドに写しながら西尾さんが1問ずつ尋ね、児童が真剣に紙に答えを書いていきました。質問は、①あなたの夢は何ですか? ②大きくなったら何をしたいですか? ③あなたにとって一番大切なものは何ですか? ④学校は好きですか? ⑤今幸せですか?の5つでしたが、私のそばの女の子は、大切なものは神様と学校と、きれいな英語で書いていました。午後からは、6年生は堀川小学校の6年生の児童が書いた手紙に対する返事を暗い教室で書き、他の学年の児童は、西尾さんや私と同じく5回目のバヌアツ訪問となった戸田さんが共感し、バヌアツの小学校でも行うことにしたSORAプロジェクト(A4サイズの紙に自由に塗り絵をしてもらい、出来た絵をつなげると下絵の線が繋がって一つの作品になるという参加型のアートワーク)(写真3)に参加して、思い思いに塗り絵を楽しみました。

 翌24日は午前中に、前回2013年に日本人として初めて訪れたナタワ小学校(写真4)に2度目の訪問をし、午後はこれまた日本人が初めて訪れるというサラ小学校(写真5)を訪問して、同じくビデオ上映やSORAプロジェクトを行いました。

 25日、私は前日から痛みを感じ始めた肩が動かすことも出来ないほどになったため、これも今回初めて訪れることになったビビ小学校訪問を断念し、当社の東日本大震災の現状視察の2回の慰安旅行を企画し添乗してくれたエヌトラベルの中井社長と二人、オイスターアイランド(写真6)の宿泊ホテルでビールを飲みながらお互いの人生を語り合いました。

 26日の午前中にサント空港(写真7)を発ちポートビラ空港、シドニー空港経由で27日の早朝に羽田空港に帰り着き、富山空港から日曜日も診察してくれる整形外科病院に直行しました。

 日本とは全く文化も文明も気候風土も違う南太平洋の人口26万人の発展途上国バヌアツへの5回目の訪問は、過去4回の訪問と同様に、本当の奉仕活動とは何か、人間の幸せとは何かと改めて考えさせられましたが、今回は堀川小学校とホグハーバー小学校との交流の第一歩に関わったことで、バヌアツに5回も訪れた者として、今後の2つの小学校の交流に対する責任の一端を担うことになったと感じました。もう6度目の訪問は無いと思いますが、バヌアツと富山市の小学校同士のこれからの交流に、これまでの体験を生かして何らかの貢献が出来たらと考えています。

 なお、今回のバヌアツ訪問に、富山テレビのアナウンサーとカメラマンの2人が同行しわれわれを取材しました。来年3月に30分の特集番組として放送されますので、日時が決まったらお知らせします。

 

写真1 クリスマス例会での西尾会長のスピーチ
ホグハーバー小学校(1)
ホグハーバー小学校(2)
ホグハーバー小学校(3)
ホグハーバー小学校(4)
ホグハーバー小学校(5)
ホグハーバー小学校(6)
SORAプロジェクト(1)
SORAプロジェクト(2)
ナタワ小学校(1)
ナタワ小学校(2)
ナタワ小学校(3)
ナタワ小学校(4)
サラ小学校(1)
サラ小学校(2)
サラ小学校(3)
昼食会場そばの海岸にて
オイスターアイランド(1)
オイスターアイランド(2)
サント空港