絶対積極(ぜったいせつぎょく)は、私が信奉する中村天風師の教えです。
中村天風(なかむらてんぷう、1876年7月30日 – 1968年12月1日)は右翼団体玄洋社社員、大日本帝国陸軍の諜報員、日本の実業家、思想家、ヨガ行者、自己啓発講演家。天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎。
学生時代に喧嘩で相手を刺殺(社長注:正当防衛)、日清日露戦争当時は軍事探偵(社長注:スパイ)として活動するも、戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受け渡米し、世界を遍歴。インドでのヨガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。中村天風の考え・活動に影響を受けた人々は、ヨガ関係は勿論であるが、その他にも東郷平八郎、原敬、北村西望、宇野千代、双葉山、広岡達朗など、実業界では松下幸之助、稲盛和夫など多くいる。近くは、大谷翔平などがいる。(出典:ウィキペディア)
私が中村天風を知ったのは、大学の経済学部同期生で、柔道部でも一緒に稽古した親友の和田清さんからの年賀状でした。和田さんは非常な読書家で、学生時代にもいろんな本を勧めてくれましたが、十数年前の年賀状に「宇野千代の天風先生座談がおもしろいよ」と書いてあったのです。早速「天風先生座談」を購入して読んだところ、中村天風というこんなすごい人物が日本にいたのか!と驚きました。そこで、1万円ほどの分厚い中村天風の本「成功の実現」を購入しました。また、「成功の実現」と同じ発行元から、天風の言葉が毎週一つずつ書かれ、巻末には「天風成功金言・至言100選」や「日常の心得」が印刷されている「成功手帳」も毎年購入し、毎日、一日の行動をメモしています。
また、講師を招いて中村天風について学び、心身統一法の訓練もしている北陸天風会という会に何度か参加して知識を深め、不思議な体験もしました。その会で買い求めたのが、中村天風が語る運命をひらく言葉を収録した「ほんとうの心の力」、そして、天風に出会った人、天風から直に教えを受けた人などの文章を綴った「哲人 あの日あの時」です。天風について知れば知るほど、このような人のことを本当の「哲人」と言うのだと確信しました。そして、中学校で行っている課外授業や、富山大学経済学部での講義「経営学の現場:地域企業の経営者から学ぶ」で、また、新入社員や会社訪問の学生に対して、天風の言葉「ばい菌一匹でも、目的無くこの世に出てきたものはない」と「この世、この時、人間に生まれてきたのは、人の世の役に立つために生まれてきたんだよ」を、必ず紹介しています。
私は、40歳から50歳代には時には後ろ向きな考え方をしていた自分が、中村天風を知ってから、自分の生き方、経営のやり方を前向きに変えられたと思っています。天風は心(思考、感情)を積極と消極の2種類に明快に大別し、怒り、怖れ、悲しみ、憎悪、恨み、嫉妬、悩み、迷い、心配などの消極心は「命の力」(心身の活動力の源泉)を消耗し、希望、期待、歓喜、感謝、安心などの積極心は「命の力」を旺盛にすると言っています。さらに「積極的な心(精神)」というものには、「相対積極」と「絶対積極」があると説いています。私はこの違いが分かり難かったのですが、北陸天風会で聞いた絶対積極についての説明で腑に落ちました。講師は、「松下幸之助に、真空管のシェアが日本一になったと担当の部長が報告した時、部長は幸之助が喜んでくれるだろうと思っていたのにそうではなかった。これは、日本一という相対的なことではなく、松下電器が作る真空管が人々の暮らしに本当に役立ってほしいという思いがあったからではないだろうか」という説明でした。
当社の絶対積極の具体例を挙げてみましょう。まず、クッションゼロ(CZ)式原価管理です。「不確定原価に予算をつけない」は、「ひとつとして同じ工事は無いのに、役所の歩掛を当社の工事に当てはめようと考えるのは相対的な考え方であり認めないし、プラスアルファは認めず、これでもか、これでもかと限界原価を追い求める手法は、担当者に積極的な気持ちがなければできるはずがありません。
一昨年から課長職以上の社員でトライアルしてきた「あしたのチーム」式人事評価も、本人の評価を他人と相対的に比べるのではなく、本人と上司が話し合いの上で決めた行動目標を、3カ月ごとに達成したか、しなかったかを本人と上司が面談して絶対評価するものであり、普通という中間の評価がある5段階評価ではなくて評価ランクが4段階のこの評価方式では、積極的に行動しない限り、評価は2(出来なかった)か、1(全く出来なかった)にしかなりません。
また、当社の経営理念では、他社の経営理念で見かける「〇〇で、ナンバーワンを目指す」といった相対的な文言はなく、「世の中の役に立つ」という絶対的な思いが示されています。2番目の「人を成長する資源と考える」も、あくまでその社員なりの絶対的成長であって、この思いが、前述の「あしたのチーム」式人事評価を全社展開するという今期の経営戦略につながっています。
最後に、「哲人 あの日あの時」に書かれていた天風先生のエピソードの中で、特に記憶に残っている、家が旅館を経営していた人の思い出を紹介します。この人が大学生の時、泊まっていた先生と将棋を指したが、先生はたいへん強くて角を落としてもらってもなかなか勝てない。「いや、また負けてしまった」と言うと、先生はこの人の顔をじっと見て、「また、負けましたという言葉は訂正しなさい。同じ言うなら、先生の勝ちだ。この次は僕が勝つ、とね」。そして、「自分のイメージをダウンさせる言葉は人生のあらゆる場合にも絶対使わないこと、自他を共に勇気づける言葉を使いなさい」。そして、先生はこの人の父とよく碁を打っておられたが、先生が負けた時は「うん、おぬしの勝ちだね」と言われ、ご自分が負けたとは決して言われなかったという思い出です。
社員の皆さん、「絶対積極」で生きてください。
先月のコラムの最後は、「コロナショックの後の『染後』の日本では、昭和の時代は忘れられ顧みられることなく、在宅勤務が進み人とのつながりがますます希薄になるのではないか、また国際的には一国主義が勢いを増し、国と国との対立が深まるのではないかと危惧しています。満員の映画館や下町の風情を形作っていた人と人との温かい共感性や人情が無くなってしまったら、コロナ禍の中で生まれたネットでの差別や中傷とか、正義をはき違えた『自粛警察』などという心のウイルスが勢いを増して日本中にはびこることでしょう。オンライン飲み会も結構よいと聞きますが、人の温もりが感じられない飲み会など、私は真っ平です。差しつ差されつ、会話を弾ませながら飲みたいものです。」でした。
現在、新型コロナウイルス感染の緊急事態宣言は解除されましたが、第2波、第3波が来るのではないかと言われています。そして、密閉空間、密集場所、密接場面の「3密」を避ける行動は、「新しい生活様式」の中で少しは緩和されても、続けられるだろうと思います。
こういう社会になったら、「男はつらいよ」の世界は、まったく生まれませんね。大勢の人が集まってくる密集場所のお祭りの露店で、寅さんと見物人との密接場面で、寅さんの小気味いいセリフを並べたてて物を売る啖呵売(タンカバイ)、「さあ、遠慮しないで手にはめてごらん、試すのはただよ。どうだい、どうちょっと、このへん気分よくない、」【噂の寅次郎】とおばあちゃんに電子バンドを密接して渡し着けさせるなどは、当局の指導によって設置させられた透明なビニールシートで隔てられては、出来るわけがありません。
葛飾柴又の団子屋「とらや」の店の奥の狭い茶の間という密閉空間で、おいちゃん(竜造:寅さんとさくらの叔父)、おばちゃん(竜造の妻)や、さくら(寅さんの腹違いの妹)、博(さくらの夫)などが密集してちゃぶ台を囲んで談笑しているところに、寅さんがふらっと帰ってきて、何かの拍子においちゃんと密接して取っ組み合いのけんかになることも許されません。
コロナ禍の中で生まれたネットでの差別や中傷や、正義をはき違えた「自粛警察」などの「不寛容」は、「男はつらいよ」の世界にはありません。「うるせえ!そうか、おいちゃん、そういうことを言うのかい、それを言ったらおしまいだよ」【寅次郎恋歌】と言われ、とらやを飛び出す寅さんですが、おいちゃん、おばちゃんもさくらも、「今頃、どうしているのかな?」と旅の空の寅次郎を思い、気遣います。そこに、旅先からひょっこり帰ってきた寅さんが、「歓迎されたい気持ちはあるよ。だけど、おいちゃん、俺、そんなに歓迎される人物かよ。」【寅次郎恋歌】と言うのです。そこには、不寛容という言葉が入り込む余地は微塵もありません。
毎日マスクを着けなければいけない不快感から、「人と間で人間だが、人と人との間が2mも離れては、心が通い合わない!」とか、「『男はつらいよ』の出演者が皆マスク姿だったら映画にならない!」などと考え、寅さんの口上「もう、やけだぞちきしょう、ね、やけのやんぱち日焼けのなすび、色が黒くて食いつきつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たないよ、ときやがった。」が口をついて出る今日この頃です。
先月のコラムで、「昨年末に大枚をはたいて大人買いした、革製のトランク『寅んく』に入った渥美清がフーテンの寅を演じる『男はつらいよ』全49作のブルーレイを観る時間も取れます。現在第39作まで観ましたが、毎回、秀逸なストーリーに引き込まれ、マドンナに心ときめかせています。」と書きましたが、ゴールデンウイークの最後の日、5月6日に第49作「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」を観終えました。
第1作「男はつらいよ」が公開されたのは、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした1969年(昭和44年)の8月で、第48作「寅次郎紅の花」の公開が1995年(平成7年)12月、翌1996年(平成8年)8月4日に渥美清さんが68歳で亡くなり、その翌年の1997年(平成9年)11月に特別篇として第49作が公開されたのでした。足かけ29年間にわたり制作、上映されてきたことになります。
私が初めて渥美清さんを見たのは、私が中学生だった1961年から5年間放送されたNHKテレビのバラエティー番組「夢であいましょう」でした。「上を向いて歩こう」(歌:坂本九)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「帰ろかな」(北島三郎)など数々のヒット曲を世に送り出した番組でしたが、コメディアンとして売り出し中の渥美清さんが司会のファッションデザイナー中島弘子さんの横に現れて実に可笑しなことをしゃべりかけ、中島弘子さんが必死に笑いをこらえる場面に、何とも面白い役者がいるものだと思いました。
しかし、「夢であいましょう」で強烈な印象を受けた渥美清さんが主役を演じる「男はつらいよ」を観に映画館に足を運んだのは、1度か2度ほどでなかったかと思います。おそらく、社会人として新しい人生を歩みだし、朝日建設に入ってからは会社経営や青年会議所活動、そして結婚しての家庭生活にと何かと多忙な日々を過ごす中、世界最長のシリーズを観るよりも年に1、2本、評判の映画を観るのが関の山になっていたのでしょう。
「寅さん」を、夜な夜な酒を飲みながら観終わって思ったのは、「映画館で観たかったなぁ」でした。それは、革製のトランクの中にブルーレイと一緒に入っていた「男はつらいよ 50周年記念読本」の中の対談で、片桐はいりという個性派女優が語っていた言葉からでした。“もぎり”のアルバイトをしているときに「男はつらいよ」公開中の映画館で特別な高揚感を体験したという片桐さんは、「寅さん」だけを観るお客さんが多くて、2本立て興業なのに併映作は観ないで帰ってしまう、元日に出勤したら、銀座通りまでズラーッとお客さんが行列を作っていて、初詣の帰りに「寅さん」を観るというのが、お客さんにとって決まりごとになっていたみたいなど、映画館に来るお客さんの熱気を語っているのです。今の映画館では考えられないことですが、満員の映画館で「寅さん」を観たかったと思うのです。そして、小・中学生、そして大学生時代に出かけた映画館のことを思い出します。座れなくて、立って観たこともあるほど盛況で、大勢のお客さんと映画の始まりをワクワクしながら待つ一体感がありました。
観終わってのもうひとつの思いは、「寅さん」の実家の団子屋「とらや」のある葛飾柴又のような懐かしい下町風景が無くなってしまったということです。富山でも、富山駅前にCiCビルが建つ前は、魚屋や八百屋、飲み屋が雑然と並んでいた横丁があり、母に連れられて買い物に行った小学生の頃が懐かしく思い出されます。今、昭和の雰囲気が残っているのは山田雑貨店くらいでしょうか。
私は高校や大学での講義で、勉強する目的を考えるようにと、第40作『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』の中で、甥の満男に「何のために勉強するのかな?」と問われた寅さんの「人間、長い間生きてりゃいろんな事にぶつかるだろう。そんな時、俺みてえに勉強してないヤツは、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強したヤツは自分の頭で、きちんと筋道を立てて、“はて、こういう時はどうしたらいいかな?” と考える事が出来るんだ。だからみんな大学行くんじゃないか、そうだろう」と答えたことを紹介し、勉強する目的は考える力を養うことだと話しましたが、反応はさっぱりでした。何とも情けない学生たちかとがっかりし、「男はつらいよ」を観た人はことがあるかと尋ねたら、全くゼロ。平成生まれの人間に寅さんの味は分からないのだろうと思い、無理矢理自分を納得させました。しかしコロナショックで自粛が叫ばれている今、寅さんの人間味や昭和の時代の良さを忘れてはいけないと思うのです。
昭和の日は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日として制定されましたが、コロナショックの後の「染後」の日本では、昭和の時代は忘れられ顧みられることなく、在宅勤務が進み人とのつながりがますます希薄になるのではないか、また国際的には一国主義が勢いを増し、国と国との対立が深まるのではないかと危惧しています。満員の映画館や下町の風情を形作っていた人と人との温かい共感性や人情が無くなってしまったら、コロナ禍の中で生まれたネットでの差別や中傷とか、正義をはき違えた「自粛警察」などという心のウイルスが勢いを増して日本中にはびこることでしょう。
オンライン飲み会も結構よいと聞きますが、人の温もりが感じられない飲み会など、私は真っ平です。差しつ差されつ、会話を弾ませながら飲みたいものです。