2012.03.01

3.11から1年が経って(太字は写真あり)

2月29日(水)、昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた仙台市の沿岸部、若林区の荒浜地区を訪れた。前日の28日に仙台市内で開催された「三方良しの公共事業改革推進カンファレンスin仙台」(写真1)に併せて、翌日に被災地の見学を計画して欲しいと事前に事務局に依頼し実現した。
 荒浜は、地震発生直後、大津波が渦を巻きながら濁流となって、見る見るうちに家や車、漁船を押し流し、堤防のように見える盛土された道路に向かって狂ったように進んで行く、我が目を疑うような映像が何度もテレビに映し出された地区である。後で知ったが、この荒浜地区では翌日200人〜300人の水死体が見つかった。

三方良しの公共事業改革推進カンファレンスin仙台(写真1)

 仙台駅を出発した車が荒浜に近づくにつれて、半壊した建物(写真2)が見え始めるが、次には、がれきが取り除かれ、ほとんど何も建っていない荒涼とした平地となる。見えるのは、家の基礎コンクリートだけの宅地と道路だけ(写真3)。そんな風景を見ながら、地震の翌日から全社挙げて復旧作業に当たった仙台市の深松組社長のカンファレンスでの事例報告を思い出す。

半壊した建物(写真2-1)
半壊した建物(写真2-2)
家の基礎コンクリートだけの宅地と道路(写真3)

テレビや新聞では、自衛隊や消防団員などによるがれきの中の遺体の捜索状況がたびたび報道されたが、捜索隊が被災地に入れるように最初に道路を開けた(写真4)のは、すべて地元の建設会社であった。自らの会社も被災し、社員が亡くなったり重機を流失したりした建設会社も、残った社員を動員して作業に当たった。がれきに埋まった道路にも遺体があるので、遺体を発見した時は重機で傷つけないようにしながらの作業であったが、その後、作業に当たった多くの社員がうつ病になり今も苦しんでいるという。

道路啓開(写真4)

コンクリート基礎の上に建っていた家々でそれぞれの日々を送っていた人たちは、今、生きておられるのだろうか、どうされているのだろうかと思いながら海岸に着いた。海岸には、基礎をえぐられながらも残った公衆便所(写真5)のそばに慰霊碑(写真6)が建っていた。海岸の堤防(写真7)に登ると、何か臭う。海岸沿いには水産加工場があったので、その臭いだと聞く。
 堤防の上で、一緒に視察した奈良の中村建設の社員さんから、炊き出しなどのボランティアで被災地を4回訪れたと聞き、義援金や会津若松への震災支援旅行くらいしかしてこなかった自分を恥ずかしく思った。

基礎をえぐられながらも残った公衆便所(写真5)
慰霊碑(写真6)
海岸の堤防(写真7)

昨年の3月11日の午後2時48分、私は午後1時から本社の4階で行われていた「現場NOTE」導入プロジェクト会議に最初の1時間だけ出席してから、2階の自席で仕事をしていた。大きな揺れは感じたが、近所のビルの解体作業がその時だけ特に激しかったのだろうと思っていた。富山県では全く被害が無かったが、私がこの時間に出張や旅行で東北地方に出かけていてこの大震災にあった可能性が全くないとは言い切れないと思うことがある。実際、車で仕事に出かけていて、迫り来る津波から命からがら逃げた人のニュースを聞くと、私を含め被害にあわなかった全国の人々は、たまたま地震の影響をさほど受けない安全な場所にいて、たまたま生き残ったと思えて仕方が無い。

 大震災から一周年を迎えるに当たって、3月に入ってから連日テレビや新聞は被災地の様子を報道したが、見るたびに読むたびに、被災地でこんなにも悲惨な出来事があったのかと思った。また、未だに精神的にも経済的にも厳しい生活が続いていることに、何とも言えない悲しさに襲われた。
そして、自分の想像力の無さに愕然となった。

 生き延びたのに仮設住宅で自殺した50代の女性。4歳の息子を失い自殺を考える日々を送る女性と、娘であるその女性を見守る自らも妻を失った私くらいの年齢の父親。それまでの地域のつながりを失った仮設住宅での生活で、引きこもりになったお年寄り。両親を亡くした孫を育てながら、当初は死にたいと思っていたのが、今ではあと10年あと15年、いや90歳まで生きてひ孫の顔を見たいと話すおばあちゃん。そんな話を見聞きするたびにティッシュペーパーに手を伸ばし、そんな状況が生まれるであろうことに想像が及ばない自分、毎日「今日の昼は何を食べようか?」、「今夜はすき焼きが良いな」などと気楽なことを考えながら生きている自分を恥ずかしく思った。

 日本人は忘れっぽい国民だといわれ、私自身もその傾向が強いが、2万人近くもの死者、行方不明者を出した東日本大震災は、死ぬまで絶対に忘れてはいけないと思っている。この大震災で亡くなった方々、被災されて厳しい生活を送っておられる方々のことを忘れることなく、自分の人生の責務は何か、その責務をどのように果たせばよいかを考えながら生きていきたい。

津波で被災した閖上(ゆりあげ)中学校
いつか復興して、この地で生徒達が会える日が来ることを願います。