今回のコラムのタイトル「想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜」は、4月5日(土)に大阪で観た、黒柳徹子主演の海外コメディーの演目である。
私はこれまでに演劇の舞台を観たことが無かった訳ではなく、昭和45年から50年までの兵庫県でのサラリーマン時代には、先輩社員に誘われて労演(勤労者演劇協(議)会)の芝居を神戸で何度か観たことがあった。いのうえひさしが書いた芝居が面白かったことを覚えている。
しかし富山に戻ってからは、映画館には年に1回も行けばよいほうで、家でもテレビドラマもほとんど見ることがなく、まして芝居を観に出かけることは無かった。その私が、わざわざ旅費と宿泊費をかけて大阪まで演劇を観にいったのだ。
きっかけは、3月21日の朝日新聞の記事である。新聞の中程の左面に、梅田芸術劇場で行われる演劇やコンサートなどが全面広告してあったが、見るともなしに見ていた私の目に飛び込んできたのが、一番下にあった黒柳徹子が主演する「想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜」だった。4月3日から6日まで梅田芸術劇場にあるシアター・ドラマシティでおこなわれるとある。サラリーマン時代の仕事場であり遊び場だった大阪に久しぶりに出かけたい思いに駆られた。そしてこの全面広告の紙面の右面が芸能欄で、一番上に「徹子の喜劇 年重ね ますます」という見出しの記事があった。この記事の最後に、「いま80歳。シリーズの一つ、「幸せの背くらべ」は92歳の役だが、92歳になったとき再演したい。目指す境地だ。」とあった。80歳とは知らなかった。これで観に行こうと決めた。
黒柳徹子は、私が小学生のときから知っていた。このコラムを読むほとんどの人は知らないだろうが、1954年(昭和29年)から3年間放送されたNHKのラジオ番組「ヤン坊ニン坊トン坊」で、末っ子のトン坊の声を演じていた。60年経った今でも、ヤン坊とニン坊の声が、横山道代と里見京子であったことを覚えているし、カラスのトマトさんが歌っていた歌の歌詞とメロディーを今でも少し覚えている。そしてラジオからテレビに移り、NHKテレビの連続人形劇「チロリン村とくるみの木」で黒柳徹子は声の出演をしていたが、ネットで調べたらピーナッツのピー子役であり、里見京子はクルミのクル子、横山道代はタマネギのトン平役だった。
その後、1961年(昭和36年)から始まったNHKテレビの土曜夜のバラエティ番組「夢であいましょう」にレギュラー出演して、当時テレビに出始めの渥美清と軽妙なやり取りをしていた。この番組の中の永六輔作詞・中村八大作曲による「今月のうた」から、坂本九の『上を向いて歩こう』が生れ、初めてこの歌が歌われた翌週の月曜日、中学3年生だった私のクラスは、「あの歌、いいのー(いいね)」で持ちきりだったことを覚えている。
また、平日の放送のため私はあまり見たことが無いけれど、1976年(昭和51年)にスタートしたトーク番組「徹子の部屋」は未だに続いている。
そして、1981年(昭和56年)に彼女が書いた「窓ぎわのトットちゃん」は、出版されると同時に購入し一気に読み終えた。そして完全に黒柳徹子のファンになった。
さて、2月のロータリークラブ合同例会の講演会で、日本には創業100年以上の企業が世界でダントツに多いと聞いた。数字を良く覚えていなかったのでネットで検索したら、2万6000社とあった。この話を聞くまでは、当社の創業100周年のことを意識したことが無かった。しかし、当社は1940年(昭和15年)10月の創業だから今年は74年目であり、2040年10月に100周年を迎えることになる。2010年(平成22年)の創業70周年記念式典に、会長であった父は90歳で出席したので、私も100周年式典に出席しようと、この講演を聴いてから俄然思い始めた。私がジュニア会員の{新老人の会}には、102歳の日野原重明会長を初め元気な90歳代が目白押しであり、私が100周年記念式典に93歳元気しゃんしゃんで出席するのも、現実性のないことではないとも思った。そこに、黒柳徹子が80歳にして舞台に立っている、そして92歳で「幸せの背くらべ」を再演したいという記事である。これは、観ない手は無いと思ったのだ。
紙面がなくなってきたが、大阪で観た黒柳徹子の年齢を全く感じさせない舞台に驚いた。テレビでのマシンガントークと呼ばれる声そのままに、良く通る高い声で台詞を喋り、感情豊かに演技する。舞台とあって、双眼鏡で覗いた顔は凄く濃いメーキャップだったが、他の3人の役者との息もぴったりで、時間を忘れて見入っていた。そして、私も、黒柳徹子をお手本にして80歳を迎えよう、「新老人の会」でご一緒している80歳90歳代の元気なお年とりを手本にしようと思った。
翌日の日曜日、今は年賀状のやり取りだけになっている、大阪時代に通っていたステーキハウスのママと39年ぶりに再会した。顔が分かるだろうかと思っていたが、お互いに一目で分かった。年齢は80歳を過ぎているはずだと思いながらもあまりに若々しいので、ひょっとしてまだ70歳代かと思って尋ねたら、なんと91歳とおっしゃる。ぶったまげた。ホテルのロビーの喫茶コーナーで1時間半もお互いのその後の話をしてから、昼食を一緒しようとなった。誘われたのが、ホテルの地下のなじみのステーキハウス。いくら自分がステーキハウスを経営していたからといって、ステーキを誘われるとは思わなかった。彼女のステーキの半分は私の口に入ったが、それでも91歳でステーキをおいしく食べられるということに感動した。102歳の日野原先生は今でも週に2回はフィレステーキを100グラム食べられると聞いたが、黒柳徹子はどうなのだろうか?
健康で93歳を迎え、当社の創業100周年記念式典に笑顔で出席しようと強く決意した今回の観劇であった。