2014.05.30

父の3回忌を終えて

5月17日(土)に、一昨年の5月24日に亡くなった父の3回忌法要を行った。あっと言う間の2年間だったように思う。そして、父が亡くなった時のことを思い出した。
父は、2005年(平成17年)4月に妻(=私の母親)が入院してからは、私の家と渡り廊下でつながった隣の家に一人で住み、2006年(平成18年)7月に、朝日建設の子会社の(有)朝日ケアの2番目の老人介護事業所「あさひホーム吉作」が家から歩いて3分ほどの場所に開設されてからは、そこのデイサービスを利用するようになった。しかし、毎年毎年歩行がおぼつかなくなってきて、家からホームまで10分以上かかるようになり、2011年(平成23年)の夏前には昼を過ぎてもベッドから起きてこなくなったので、確実に食事をとるために「あさひホーム吉作」のアパートに入所した。
そして翌2012年の4月20日に92歳の誕生日を迎えたが、4月はじめに下の入れ歯を紛失したこともあってか食欲がなくなってきていて、しょっちゅう点滴を打つようになっていた。そこで、何とか口に入れてもらおうと、安野屋にあるレストランの“イカのマリネ”が父の好物だったことを思い出し、そのレストランに“イカのマリネ”を注文し、会社の帰りにもらって父に食べさせたことがあった。3切れほど食べてくれた。また、当社の経理課長を務め、あさひホーム(北代)のホーム長を務めてくれてもいたMさんが、父の食欲が全く無くなってきたことを知り、父が生れ故郷の伊勢の絲印煎餅(いといんせんべい)が大好きだったことをよく覚えていて、三重県に嫁いでいる妹さんに頼んで絲印煎餅を送ってもらい、私と一緒にホームに出かけた。残念ながら1枚も食べてくれなかったが、高校卒業以来ずっと朝日建設で働き、会長さんに育ててもらったといつも口にしていた丸田さんの気持ちが嬉しかった。
5月に入ってからは、私は毎朝会社に行く前に父の様子を見にホームに立ち寄ったが、日に日に生気がなくなってきた。そして、5月19日(土)の正午前、業務推進会議中に妻から携帯電話に電話がかかってきたが、会議中だから終わってから電話すると言って電話を切った。会議を終えて妻の携帯電話に電話したら、救急車の音が聞こえる。そばに救急車が来ているのかと尋ねると、今救急車の中にいて、父を当日の救急指定病院である済生会富山病院に搬送しているところだという。父が朝からお腹が痛い痛いと苦しがり、M介護部長が救急車を呼んで救急病院に行ったほうがよいと判断し、ホームの隣の矢後医院で手続きをしてから病院に向かっているところだった。緊急事態を理解し、仕事の区切りを付けて3時過ぎに病院についた。何人もの急患が運ばれていて父の再検査も1時間ほど待たされたが、検査を終わり担当医師から私と弟が結果を聞かされた。胃から出血していて胃潰瘍か胃がんであろうが、手術をするなら救急指定日で医者がそろっている今日の内にしかできない。しかし、手術せずにこのままにしていても回復する可能性が無いではない。家族で相談し結論を出すようにと言われた。
私は、母が亡くなった時のことを思った。母は2003年(平成15年)4月の「あさひホーム(北代)」開所時からショートステイを利用していて、言葉を発することはほとんど無く、車椅子で、食事も全介助だったが、寝たきりではなかった。その母が2005年(平成17年)4月に、自宅で誤嚥から呼吸も心臓も止まり、救急車で富山大学附属病院に運ばれた。命が危ないと思われたのが、心臓が強くて再び動き出した。しかし、自分では呼吸ができないので喉に入れたチューブから空気を送り、栄養は鼻からチューブで送られ、完全な植物人間になってしまった。
ベッドの横には機械が置かれ、モニターに心拍数のグラフが映し出されていた。夏には富山病院に転院して気管切開し胃ろうを作った。そして年を越して雪のひどい1月10日の夜、85歳の生涯を閉じた。富山病院に駆けつけ母を見て、これでやっと母も楽になれたと思った。
そんな経験をしていたので、済生会富山病院の医師に手術をするかしないかの判断を迫られ、一瞬どうすべきかと迷ったが、すぐに手術はしないとの結論に至った。手術がうまくいったとしても、元のように食欲が戻り、自分で歩けるようになるわけではあるまいし、手術中に亡くなることは無くても、母のようにただ生きているというだけの植物人間になる可能性も大きいだろうと思ったからだ。
病室に移った父は点滴のチューブを嫌がり、しきりに手でチューブをはずそうとするのでミトンをはめることになったが、私に何度もミトンをとってくれと頼む。私は、ミトンを外す振りをして、「難しくて取れない」と嘘を言った。
翌日の日曜日は、私が次年度の財務委員長として出席しなければいけないロータリーの地区協議会が午前中からあり、夕方には他の会合の懇親会があった。懇親会を中座し、午後8時過ぎにようやく父を見舞った。その日の日中に病院から、点滴のチューブを父が手で払って外さないよう、精神安定剤を点滴から注入したいがよろしいかという連絡があり、了承していた。「父は肩で息をしていた」と手帳に書き付けている。
21日の月曜日は、8時前に病院を訪ね30分ほどだけ病室にいてから出社し、業界関係の打合せ、役所との意見交換会、社内会議、そして銀行の講演会に出席した。講演会の後の懇親会を欠席して会社に戻る途中に病院の担当看護師さんから電話があり、病状が厳しいので夜の付き添いをするようにと言われた。弟と打合せし、その日は弟が泊まることになった。
22日(火)は、8時前に病院に行き、弟に夜の様子を聞いた後、10時まで病室にいた。午後は、富山県建設業協会の総会、法人化50周年式典、そしてパーティーと続き、その夜も弟が泊まってくれることになっていたので、酔っていたこともあり、病院には寄らずに帰宅した。
23日(水)、8時前に病院へ。看護師長から、足の指が黒ずんできていて冷たい。尿の出る量が少ないために体がむくんできていると言われる。主治医の回診があり、上の血圧は80。この夜は私が泊まることにしていたので、午後3時に病院に行く。月曜日にも火曜日にも、朝日建設や朝日ケアの社員、職員が何人も見舞いに訪れていたが、当社のOBで車椅子生活している
Fさんが車椅子で病室に現れたのには驚いた。掛け布団の下のやせ細った父の脚を撫でながら、「こんなに細くなってしまって」と涙ぐむ姿に、私もウルッとした。午後6時、上の血圧は68。午後11時20分の上の血圧は75。
24日(木)、午前4時40分の看護師の巡視時に、脈が落ちてきていて心拍数は1分間に30回と弱まっているので、家族に連絡するようにと指示される。確かに、心拍数を測るモニターの数値はどんどん下がってきている。自宅と弟に電話した後、5時5分ころにモニターの数値がゼロに。「心臓が止まった、ついに親父が死んでしまった」と思ったら、またチョットだけ回復したので、家族が到着するまでもつかと思うも、またゼロになりそのまま回復しなくなった。5時29分に主治医が死亡を確認した。
以前、父の代理で父方の伯母の葬儀に伊勢に出かけたとき、久しぶりに会った東京在住の従兄から、「葬式は故人の最後の贈り物と言う。遠くはなれて久しく会っていない親戚や知人に会うことができるから」と言われて、なるほどと思ったが、父の3回忌は、父の最後の日々を思い起こさせてくれ、日記を読み返したり、妻と当時の状況を話し合って確認出来たりした。読者には迷惑かもしれないが、こうして長々とコラムに書き連ね文章で記録に残したことも、故人の贈り物なのかもしれない。そして、父の92年の生涯を想い、合掌。