5月21日(木)の午後6時からパレブラン高志会館で、昭和37年(1962年)3月に富山大学教育学部附属中学校を卒業した同級生30名が参加しての同期会が行われました。傘寿とは、数え年で80歳(満79歳)を迎えることを祝う長寿の祝いですが、八十が「傘」という漢字の略字(仐)を縦に分解すると「八十」に見えることに由来しています。
附属中学校は1学年150名の生徒がA、B、Cの3クラスに50人ずつ分かれていましたが、私は1年生の時がAクラス、2年生がBクラス、3年生でCクラスでした。
この同期会は、私が20歳代のころから2,3年ごとに日帰りで、時には1泊で開催されてきました。そして毎回私が代表世話人を務めてきました。
私には、S.O君という小学4年生の時に附属小学校に転校してきた親友がいます。彼のお父さんは富大の理学部生物学教室で教授を務めておられました。蓮町にある富大の官舎に住んでいて、私は一度だけですが岩瀬港線(現在のライトレール)の電車に乗り、生まれて初めて他所の家に泊まりました。彼も、今の朝日建設の本社がある場所にあった我が家に一度泊まっていきました。その日はカレーライスでしたが彼はあっという間に平らげ、母が再度肉を買いに出かけたことを覚えています。彼は野球部でキャッチャーをしていて、体もがっしりしていたので「ブーちゃん」と呼ばれていましたが、今回の同期会でも「ブーちゃん、久しぶりだね」と声をかけられ、「そんなに太っていたかな?」と言っていました。私は「花」と男性からも女性からも呼ばれていました。なぜ「花」なのかは分かりませんが、花のようにかわいらしかったからだと勝手に思っています。
彼は九州大学の博士課程を卒業後、九州大学で助教授や准教授、長崎国際大学で教授を務めていましたが、現在は東京理科大学の客員教授として2、3か月に一度、大学で講義をしているとのことです。もらった名刺には理学博士(九州大学)とあり、界面科学の研究に携わっているようです。
今回の同窓会の案内を彼にメールしたら、東京での学会と重ならなかったので参加するとの返信。世話をしてくれている女性二人に連絡したところ、最初の出席の返事だということでした。
彼は前日に富山に着いていたので、彼と以前出かけた桜木町の行きつけの居酒屋「ちろり」とホテルグランテラス富山の最上階にあるBAR白馬館に行きました。前回も彼と同じ2軒をはしごしましたが、白馬館はトイレが広かったと言いました。その白馬館は、去年92歳で亡くなった白馬舘創業者の内田輝廣さんが80歳で西町に新たに開店した白馬館のことです。
彼はホテルにチェックインした後市内を歩いたが、中央通りがシャッター街になっていたことに驚き、道に迷ったとも言っていました。「ちろり」には歩いて出かけましたが、足元がおぼつかない私の手を引き、「お花、前に段差があるよ」と何度か声をかけてくれました。
同窓会では受付で参加者名簿が渡されましたが、分かっている方のみとして、物故者の名前が31名も載っていました。男性19人、女性12人でしたが、彼も亡くなったのか、彼女も亡くなったのかと驚いた人もいました。
司会者から「乾杯の音頭は一番遠くの佐世保から参加したS.Oさんにお願いします」ということでS.Oさんが乾杯の発声をし、続いて私が開会の挨拶をしました。冒頭に、5月6日の富山新聞のコラム【時鐘】に書かれていた川柳を紹介しました。「同窓会 病や介護は禁句との 約束なれど他に何ある」です。そして、病は5月7日に大腸ポリープの切除手術を1泊入院して行い、介護は、両親や義母は亡くなったが、今は16歳の老犬の介助をしています。昨年この犬と散歩していて、近所の男性から「腰が曲がりましたね」と言われ、「78歳ですから」と応えたら、「クロちゃんですよ」と言われたことを話して、老人が老犬と毎朝散歩をしていますと言ったら、笑い声が聞こえてきました。
近況報告では、奥さんが認知症で施設に入っていて、本人はサービス付き高齢者住宅で暮らしているという男性、とうとうとしゃべる男性、趣味がジャズボーカルという女性、今も喫茶店を営んでいる女性など様々でした。
次回の同窓会は、88歳の米寿には8年もあるので3年後に行おうと決めてお開きになりましたが、11人で2次会に白馬館に繰り出し、富山の夜景を楽しみながら酔いしれました。人生は楽しいと思った同窓会でした。