2026.02.25

友人の死

 昭和40年(1965年)に東北大学経済学部にお互いに現役で入学し、柔道部に2人とも初心者で入部し、一年留年しての卒業も一緒だったWさんが、数年前に肺がんを患い闘病生活を続けていましたが、2月5日に79歳で亡くなりました。私と同い年でした。2月2日(月)に、経済学部も柔道部も同期のOさんから、「今日、(同じく同期で理学部出身の)Kと2人で川崎市の新百合ヶ丘総合病院に入院中のWさんを見舞ったが、意識がなく危ない。林も見舞いに行くなら早い方がいいよ」と電話が入りました。

   

 前回Wさんに会ったのは昨年の4月で、東京での会議を終えてからKさんと2人でご自宅を訪ねました。奥さんの話では、Wさんの体重は80㎏以上あったのが65㎏になってしまい、自分からは全く何も話さない。読書家で詩を書きもしていたのに本も読まず、テレビで昭和歌謡曲を聴き、フーテンの寅を観るだけとのこと。WさんはKさんの名前は言えるのに、私が「僕の名前、分かるか?」と聞いても、「おもろいやつやったなあ」と答えるだけでした。しかし、Kさんや私と一緒にビールやウイスキーをしっかり飲んでいました。

   

 Wさんの柔道については、柔道部の部誌に掲載の卒業生プロフィールに、上手く記されています。

   

 この人ほど「寝技の醍醐味」を満喫させてくれる男はいない。(中略)ことの真偽はともかく、大学に入って初めて柔道を始め、お通ふり切る武蔵のごとく寝技一筋に精進を重ね、自らの肉体を痛めつつ一つの形に到達したことは、誰しも範としなければならぬことだろう。相手をぐっと引きつけ、後ろ帯を取り、その剛力と技でもって返し、縦四方固めなり横四方固めに入る独特の形は、新入生の羨望の的となるが、それとて決して一朝一夕に成ったものではないのである。(後略) Oさんからの電話を受けて、仕事の予定がなかった2月4日(水)に、病院にWさんを見舞いました。事前に奥さんに伺うと言っていたので、奥さんも病室におられました。面会時間は30分と限られていましたが、4時から40分ほど病室でWさんに会いました。酸素マスクを着け、点滴をされ、目は半開き。痛み止めにモルヒネを投与しているとのことでした。耳は聞こえるとのことなので、帰り際に私はWさんの手を握り、詮無いこととは思いつつ耳元で、「来年の傘寿を一緒に祝おう」と話しかけました。11時過ぎに帰宅した直後に奥さんから「林さんに会って安心したのでしょうか、危篤の連絡が入り病室で付き添っています。本日は遠いところおいでくださいまして感謝申し上げます。」とLINEで連絡がありました。

   

 そして翌朝8時に奥さんから「只今息を引き取りました。取り急ぎご連絡いたしました。」とのLINE。

   

 Wさんは読書家で、「林、太宰読んだか」というので、「斜陽」、「人間失格」、「走れメロス」などを読んでいたら、Wさんは「太宰は古い。坂口安吾を読め」と言うのです。聞いたことのない作家でしたが、太宰と坂口は戦後の日本において「無頼派」と」言われた文学的盟友で、「桜の森の満開の下」、「白痴」、「堕落論」などを読みました。Wさんと知り合わなかったら、坂口安吾の作品を読むことはなかったでしょう。

   

 Oさん、Wさんと私の経済学部の3人は、教養部時代は学生服に角帽、そして下駄履きで学内を闊歩していました。柔道部の稽古が終わると一番町のビアホールに駆け込んで、大ジョッキを一気に飲み干していました。Wさんは、高倉健が好きで「網走番外地」を良い声で歌っていました。何もかもが懐かしい思い出です。覚悟はしていましたが寂しくなりました。